2018年05月29日

天が開くのを見る

「天が開くのを見る」2018年5月20日ペンテコステ聖餐礼拝説教 楠原博行牧師



《洗礼者ヨハネ》

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネによる福音書第1章29節)

ヨハネはそう腕を伸ばし、指を差して、イエス様のことを、こう告げたのです。これがヨハネの証しでありました。ついにヨハネは、この信仰により命を失うほどなのですが、証し人、イエス様を証しする人として、私どもの目の前で、イエス様を指し示します。

私どもの、そしてすべての人々の罪を取り除く、そしてそのためにみずからを犠牲にされ、十字架で死なれたイエス様を、こう言って証ししたのです。

私どものイエス様を指し示す指は、その腕は、どのようなものだろうかとも問うたのです。どんなにふるえていても、私どもが指さすイエス様のお姿はただ一つに違いありません。

さてヨハネによる福音書を読み進め、場面は変わります。再びヨハネがイエス様を見つめる。そして言ったと言うのです。

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。(同35、36節)

イエス様を見かけるたびに、ヨハネは、こう証しをしたということでしょうか。

「歩いておられるイエスを見つめて」という言葉に心ひかれます。

「見つめる」という言葉を辞書で調べますと、何かをまっすぐに見る。だから一心に見る。見つめる。そういう意味の言葉です。

なぜヨハネはイエス様を見つめたのかと考えてしまうのです。何度も見かけていたはずなのに。ただ親しみをもって、私の救い主として、イエス様を見つめているのだと考えれば、私どもも同じだと思います。このお方が、このお方なら、との信頼のまなざしを私どもも向けるに違いないからです。ヨハネはふたたびあの言葉を口にしました。

「見よ、神の小羊だ」。それは私どもにおきまして、ああ、このお方が、私を救って下さる方。私のために十字架にかかれたお方だ。そういう言葉となるのに違いありません。


《主イエスの召命》

二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。(同37節)

ルカ、マタイによる福音書はすでに読み終えましたと先週も申し上げたのです。

ですから、たとえば、あのルカによる福音書のイエス様の弟子たちの召命の物語と、このヨハネの召命物語とはどんなにか違うものかと思わないではいられません。

夜通し働いたが、何も取れなかった漁師シモン、後のペトロが、イエス様から漁をしなさいと命じられたのでした。期せずして大漁になり。驚き恐れるシモン・ペトロにイエス様は言ったのでした。

……「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
(ルカによる福音書第5章10、11節)

厳しさと、イエス様への絶対的信頼と、イエス様の弟子としての歩みだし。

これらを告げるイエス様の弟子たちの召命物語と、私どものヨハネによる福音書の弟子たちの召命とのずいぶんな違いであります。

ただある人は言うのです。後にイエス様の弟子になった人たちの中に、かつてはヨハネの弟子であった人たちがいた。イエス様の召命を直接受けたとき、だからイエス様のことは知っていた。むしろだから、「すべてを捨ててイエスに従った」ということができたのではなかったか。ヨハネが「見よ、神の小羊だ」と指し示してくれていたから。「すべてを捨ててイエスに従った」ということができたのだ、と。


《弟子たちの信仰》

ヨハネによる福音書が記す、弟子たちの召命の物語は、

だからむしろ弟子たちのイエス様に対する信仰を書き記していると言われるのです。

ですからそのような目で見ますと、わかってくることがあるのです。

ルカ福音書のようでなく、すべてを捨てて従う弟子たちの姿ではなくて。


アンデレは兄弟シモン、つまり後のペトロに言うのです。

「わたしたちはメシア・・『油を注がれた者』という意味・・に出会った」(ヨハネによる福音書第1章41節)

と言った。


フィリポも言うのです。
フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」(同45節)

そしてナタナエル。

ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(同49節)


すべてを捨てて従う弟子たちの姿ではなくて、主イエスがどのようなお方であるかを口々に言い表す弟子たちの言葉が記されるのです。

これがヨハネによる福音書のひとつの特徴であります。

考えてみますと、1章の洗礼者ヨハネからはじめて、イエス様がどのようなお方であるか、その言葉が次々の記されるのです。


《天が開ける》

イエス様はナタナエルにおっしゃいます。


もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(同50、51節)

天が開けるということはどういうことでしょうか。

神の天使たちが、人の子、とは独特の言い方で、イエス様のことですから、イエス様の上に天使が昇り降りするというのです。それをあなたがたは見る。そうイエス様はおっしゃいます。

私が思い浮かべるのは、旧約聖書創世記です。ヤコブの物語です。我が家で過ごすことができなくなったヤコブが、いや、自らの謀略のせいで、命さえねらわれることになったヤコブが、逃亡したのです。その旅先で、天使が昇り降りする場所にたどり着いたのです。
ヤコブが言ったように、そこは神様がおられる場所だと言うことです。

ですからイエス様の上に天使が昇り降りすると言うのは、イエス様こそ、神様がおられるところだと言うことです。

ナタナエルにおっしゃった言葉は、この私、イエスにおいて、神がおられる。それを見る。そうおっしゃったのに他ありません。


今日は、ペンテコステです。これも使徒言行録を通して読んだ通りです。

天に昇られたイエス様が、教会のカレンダーでは、それは今年は5月の10日だと申し上げました。そして今日5月20日。イエス様がお約束してくださった聖霊が与えられたことを祝う日なのです。

弟子たちに聖霊がくだされ、私ども教会に聖霊がくだされ、今、ここ、私どもにも聖霊がくだされている。そう私どもの信仰は証しします。

まさに神様、イエス様、そして与えられる聖霊。私どもの中で働く聖霊。まさに天が開かれていると言うことに他ありません。



《聖霊なる神について》

聖霊について。あとひとつ思い起こしていただければと願います。
ちょうど一年前、加藤常昭が来て下さいましたときに、先生の先生であるルドルフ
・ボーレン先生の「天水桶の深みにて」という書物の話しをしてくださったのです。
ボーレン先生が奥様を亡くされたとき、ハイデルベルク信仰問答の言葉により支えられたこと。そううかがったのです。その言葉とはこうでした。

聖霊は、わたしにも、与えられています 。

今日、ペンテコステの日は、このことを私どもに思い起こさせる日なのです。

聖霊が、みなさんに、あなたにも与えられています。

私どもも、このわたしも、聖霊を与えられ、信仰者として、支えられ、力づけられ歩むことができるのです。
posted by かたつむり at 16:56| 神奈川 ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月14日

見よ、神の小羊だ

「見よ、神の小羊だ」 2018年5月13日浦賀教会主日礼拝説教 楠原博行 牧師




《証し》
さて、ヨハネの証しはこうである。(ヨハネによる福音書 第1章19節)

この「証し」という言葉、これは殉教を意味する言葉と同じ語源の言葉なのです。

証し、とは殉教を意味する言葉です。

愛用しております新約聖書の辞書では、

死を招く証し、殉教の死、殉教、という記述もあるのです。

ただここ1章19節が言うヨハネの証し、の証しは、私どもが教会で使う証し、証言、何よりもイエス様についての証し、証言、そういう意味で用いられているに違いありませんが、すでにマタイ、ルカによる福音書を読み終えております、私どもは、この後、イエス様についての証しをした洗礼者ヨハネがどうなったかを知っております。サロメの事件に巻き込まれ、ヘロデ王に殺されてしまうのです。ですからヨハネの証し、イエス様についての証しは、ヨハネに死を招いた証しであったに違いないのです。

《ヨハネの証し》
ヨハネによる福音書1章19節以下が記すヨハネの証しとは次のようです。

さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。(同19−20節)

ヨハネに対して、「あなたは、どなたですか」と尋ねたのです。ヨハネは答えます。「わたしはメシアではない」と。

旧約聖書の時代から、人々は待ち望んでいたのです。メシアを。メシアとは英語のメサイアという言葉の方がなじみがあるかもしれません。救い主と訳されます。もともとは油注がれた者、王様を意味する言葉ですが、人々が待ち望む、救い主を意味する言葉となっていたのです。

救い主がこの世に現れる時には、歴史的な預言者エリヤが現れるとも信じられていました。

何よりもあわせて読みました旧約聖書マラキ書3章23,24節に、こう書いてあるからです。

「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。」

この箇所を見て、みなさんはどうお思いになるでしょうか。簡単なことなのです。旧約聖書の一番最後の言葉だということです。

ですから、私どもにもわかるのです。旧約聖書が記す希望が、このエリヤを遣わす、で終わっている。

だからイエス様の時代、人々は、あのエリヤが、今来るか、今来るか、そう思って待っていたに違いないのです。

だから人々はヨハネに「あなたはエリヤですか」とも尋ねたのです。ヨハネの答えは「違う」でありました。

人々はさらに尋ねます。

「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」(ヨハネによる福音書 第1章22節)

ヨハネは旧約聖書イザヤ書の言葉を告げます。

ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(同23節)

ヨハネはこの世の荒れ野で叫ぶのです。主なる神様の道をまっすぐにせよと。

そしてそこをイエス様がお通りになる。ヨハネはまさにイエス様を証しするために、この世に現れたのです。

《個人的なこと》

今日はいくつか私のずっと若い頃の話しをすることになりますことをお許しいただきたいのです。

私が学生時代に集っていた教会では、洗礼を受けるとき、洗礼式に臨むとき、

自分の言葉で記した信仰告白を読むきまりになっていたのです。



もう30年以上前の出来事ですが、つたなくも、自分の信仰を語ったのだと思います。

私どもは、特別な会として、証し会、というのを持たないかもしれないと言いました。

してもいいのです。実際、仲間の教会、あるいは集会では、行われているところもあるからです。

でもそれよりも、何よりも、

私どもの証し、いや証言はなにか。

ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言しました。

先週も、その前も、私どもが、イエス様を、いやイエス様の十字架を指し示す指は、

手は、腕は、どんなものだろうか、と申し上げたのです。

いや私どものからだ、私どもの生活、私どもの生涯が、

もうぜんぶがぜんぶで、イエス様を指し示しているのではないかとも思うのです。

《読書会》
今日、この礼拝後に、恒例になっております春の修養会を持ちます。

そして教会総会で申し上げましたように、今年は、ベタニア会をも含めて、皆さんと読書会のようなものができないかと願っていたのです。

ただ一冊の書物をそれぞれが購入するのは、負担もありますし、また手頃でありながら、ふさわしい書物を見つけることができませんでした。

そこで、私自身の、手もとにあります、出版は必ずしもされていない、文書を皆さんと分かち合うことができればと願ったのです。

それは私の先輩、知人が、記した信仰の言葉です。最初に読みたいと願いましたのは、私の先生の一人であります、熊澤義宣先生のNHKラジオで放送された「病床からのメッセージ」という一文です。

繰り返し紹介しておりますのは、熊澤先生が病を得て、病院のベッドの上で動くことが出来なかったときの、信仰の言葉です。

他に、加藤常昭先生が、私どもの教会に語ってくださった言葉も改めて読みたいと思いました。また私自身も、繰り返し紹介しております讃美歌詩人パウル・ゲルハルトを少しくわしく紹介したいとも願っています。さらに、私の友人と言っても許されると思うのですが、しかし海外で大きな働きをされ、ほんとうに若くして亡くなられた東海林朱美さんの文章を、紹介しても良いと、原稿をいただいた当時衣笠病院におられた方のお許しもいただいたのです。

どれくらいかかるかはわかりませんが、少しずつ、私の知人ということがあるのですが、信仰の言葉を、皆さんと分かち合いたいと願っています。

今、長老会の許しを得て、毎月一回、東京の国分寺、加藤常昭先生のご自宅のすぐ近所でありますが、読書会に参加させていただいています。それを始めるにあたり、加藤先生がこんなことをおっしゃったのです。

文章を読むのは楽しみだが、読むことを通して、それを記した人と出会う、とおっしゃるのです。

そしてその出会いを通じて、私どもの人生を生きるのだと。



私どもはヨハネによる福音書を通じて、洗礼者ヨハネに出会い、あらためて、主イエスにお会いすることになります。

私どもが信じているイエス様に、あらためてお会いし、そしてまた、すでにお会いした、私ども自身の信仰の人生をみつめることになると思うのです。

最初に、証しとは、英語の殉教を意味する言葉と同じだと申し上げました。。

私どもがイエス様のことを証しする、回りに、人々に告げる言葉は、殉教という言葉からわかるように、直接、私どもの命を危うくするようなことはないかもしれませんが、

私どもの生活、私どもの人生、そして人間である限り、この世を去って行く死に至るまで、私どもが、このからだすべてでもって、イエス様を語り伝えていく、そのような生き方、存在であるに違いありません。

ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言って指を指したのです。

私どもも、この腕でもって、手で持って、指でもって、たとえどんなにふるえていても−−これも紹介したことがある、私の親しい方の言葉ですが−−たとえどんなにふるえていても、お一人の方、私どもの主、イエス・キリストを、指し示している、そんな証しをする者の生き方を歩んでいるに違いないのです。
posted by かたつむり at 20:08| 神奈川 ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月30日

このことがどれほど慰め深いものとなることか

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
(コリントの信徒への手紙一第15章54−55節)

 「死は勝利にのみ込まれた」。聖パウロはこれらの言葉が聖書の中にあると述べます。実際のところ私は聖書のどこにあるかを知りません。ホセア書から取られたものだと思われますが、13章14節は次のように読めます。「陰府の力からわたしは彼らを贖うだろうか?死から彼らを救うだろうか?ああ、死よ、わたしはおまえの毒となろう。ああ、陰府よ、わたしはおまえの疫病となろう。」これはつまり、「おまえを殺して、おまえをなき者にしてやろう」ということなのです。聖書の中で、毒とか疫病というのは、死をもたらす悪でありますから、人をただちに破壊し、殺すのです。たとえば、最も毒の強いへびに噛まれたり、高熱にやられたり、疫病に感染したりすればです。へびに噛まれれば、高熱をもたらすのは当然なのです。聖パウロはおそらくそのことを考えており、言葉を加えてパラフレーズしているのです。
……
「私が自分で行おう」と神はおっしゃいます。「私があなたの死となり、あなたの疫病となろう。」神はこの死、疫病という醜い言葉を、ご自身にあてはめて用いられるのです。そしてこのことがどれほど慰め深いものとなることか。いったい何を、どなたのことをこの言葉でお呼びになるのでしょうか。神は自然の敵ではありません。いいえ、神は自然を助け、その敵を、死と悪魔を征服しようとされるのです。神はわたしたちの惨めさに同情されています。わたしたちが今、悪魔の毒と死とにのみ込まれ、沈み込んでしまって、自分では出て来れなくなっているのをご覧になったのです。

ルター「コリント1書注解より」

posted by かたつむり at 21:59| 神奈川 | マルティン・ルター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月29日

私どもが死の床にある時にも

しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
(コリントの信徒への手紙一第15章35-38節)

 聖パウロは、復活について、むき出しの言葉と、これまでに届けた説教の代わりに、ここでこんなにも美しい情景を描き、メタファーを用いて見せる。このように普通の人が簡単に理解できるような、心に留めることができるような言葉づかいだと言えるのは、この情景がまったくありふれたものであり、毎日誰もが目にするものだからである。そえゆえ、みなさんが農夫が野を歩きながら、袋に手をのばし、そして自分のまわりになにかを振りまいているのを見たなら、それは美しい情景であり、死者を復活させる神の美しい仕方を描いているのです。でもまずその前に、みなさんがこの説教を信じることが必要になります。そうすればみなさんは、神がそのような農夫であり、みなさんご自身は、神が地にまかれた小さな種であり、それが芽を出して、はるかに美しく、栄光に満ちたものになる、ということを思い描き、考えることができるようになるでしょう……

 それでは、敬虔な農夫がそのように種をまくときには、どのようにし、また何を考えているでしょうか?
それは無駄な損失の多い労働であるように見え、また農夫も自分の種を全く無駄にしている愚か者に見えるかもしれません。でも彼に尋ねてみれば、すぐに答えてくれることでしょう。

「何てことをお言いなさる。私は無駄にするため、だめにするためにまいているわけではないですよ。再び大きくなって、とても美しくなり、実って、このひとつかみよりも、ずっとずっとたくさんもたらしてくれるよう、こうしているのですよ。実際、鳥や虫たちにやられて、今は無駄に見えても、夏が来れば、その成長のさまを見れますよ。ひとつかみが10つかみに、一ますなら6倍になりますよ。」

農夫が考えるのはそんなことなのです。地に落ちて朽ちてしまう種のことなどにこだわっていないのです。そのままの状態であるなどとは考えないのです。いや、農夫はやって来る夏を楽しみにして待つのです。夏になれば、農夫は十分に、豊かに報われるのです。まるで目の前で見るように、農夫は種が育つことを確信しているのです……

 だから、このようにして私どもも神の御前でそのように考えるように学ぶようにしなければなりません。神はひとつかみをここに、もうひとつかみをあそこの墓地におまきになるのです。神が私を今日おつかみになり、他の者を明日おつかみになるでしょう。常に一人、一人と。そして地に、神の種としてお入れになる。それは私どもには終りか、永遠なる朽ちに見えるかもしれませんが、神はこれについてまったく違った見方をお持ちであり、まった異なった考え方をお楽しみになっているのです。神はこのことを、ただご自身の小さな種が、このみじめな存在に続いてやって来る、心地良い夏の間に、再び芽を出して、ずっと美しくなるようにと、そうなさっておられるのです。神はまるでもうすでにそうなってしまっているかのように、もう実現しているかのように確信されておいでです。

でも私どもにとって、このことが、とてもすばらしく記され、描かれておりますから、私どもが死の床にある時にも、同じ思いになることができるのではないでしょうか。

これが本当のおしまいであるかのように、私どもが見、感じることがすべて、これから自分が土に埋葬されるのだということであっても、またまるでこれが本当に終わりであるかのように、私どもには嘆く声と、泣く声しか聞こえないのにもかかわらず、私どもは不安にならなくても良いのだと。

いや、その時に私どもは、私どもの心から、そのような人間的な思いを断ち切らなければなりませんし、これは葬りや朽ちるというようなことではなくて、神ご自身が、小さな種をまいたり植えたりすることなのだと私ども自身に言って、私どもの心に、このような天の、神の思いを接ぎ木しなければならないのです。ここでは私どもは自分で見たり感じたりするものによって判断してはなりません。神の御言葉によって判断しなければならないのです。私どもが物理的な種をまくときに、種を地面に放り投げ、それが朽ちることなど考えません。そうではなくて、私どもはその未来の状態についての知識によって考えるのです。そのような思いは私どもの想像力によって生み出されるものではありません。私どもがちょうど、今の存在において、私どもの考えを神の御業から考え、形づくるのです……

 もしこの種が自分に起きることを見、感じることができたとしたら、自分が永遠に失われるのではと不安に思うかもしれません。しかし農夫はまったく違う物語を語るでしょう。もうそこにはすでに、すばらしく茎が育ち、穂がたわわになっているかのように、描いてみることでしょう。そして私どもも、私どもが地にまかれる時には、私ども自身をそのように描いてみることをしなければなりません。

これが死に行くこと、朽ち行くようなことではなく、まかれ、植えられることであり、まさにこうすることによって、新しい、永遠に続く、そして完全なる命、存在へと入れられることなのだと、私ども自身の心に刻みつけるべきなのです。

将来においては、私どもは死や墓について語る時、新しい言葉、言語を学ぶ必要があるでしょう。私どもが死ぬ時、これは実際には死ぬことではなく、来るべき夏のために、種がまかれることを意味するのであると。そして墓や地への葬りは死のむちを指すのでなく、神の種として知られており、再びいっぱいに花が咲き、想像できないほどに美しく育つ、種で一杯に満たされた野を指しているのだと。
(マルティン・ルター「コリント1章15章の注解」より)

posted by かたつむり at 11:44| 神奈川 | マルティン・ルター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

ですから思い切って前に進みましょう

更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 
(コリントの信徒への手紙一 第15章15節)

パウロは、死者の復活がないと言うなら、神さまもキリストも否定し、あなたの信仰も洗礼も捨ててしまい、福音についてこれはうそだ、「神さまも、キリストもいないと信じている。信仰について言われていることには反吐が出る」と言うのと同じだと言います…
こうしてこのテキストは信仰者たちを力づけるのと、信じない人たちには、死者の復活を否定することは神さまへのとんでもない冒涜だと恐れさせることの、二つの役割を果たすのです。それはあたかもパウロが次のように言っているかのようです。
「コリントのみなさん、これは冗談でも冷やかしでもないのです。なぜならあなたがもし、死者の復活を否定するなら、それは何かありふれたものを否定するのでも、ただひとつのことを否定すると言うのでもないのです。そうではなくて神さまの目の前で、『神さまなんて神さまじゃない、キリストなんてたいしたことない等々』と言って、神さまがうそつきだと非難することなのです。でももしあなたたちが少しでも神さま、キリストを敬うなら――そうに違いありません。あなたがたはキリスト者でありたいと願い、わたしたちに説いて欲しいと願っているのですから――あなたがたは死者の復活を否定なんてできないのです。あなたがたはきっと次のように言わないではいられないでしょう。『本当にそうです。キリストが弟子たちにこうはっきりとおっしゃって、そればかりか、実際に行うことによってこのように証明されたのですから、これについては疑いようはありません』と。ですから思い切って前に進みましょう。死者の復活の言葉により、信仰をもって大胆にこの人生に別れを告げましょう。そしてこう確信するのです。わたしたちがずっと長い間、墓穴の中にあって、土に還った後に、美しいトランペットの音が鳴り響き、キリストがかつてラザロに言ったように、『ペトロよ、パウロよ、出て来なさい!』とおっしゃってくださるのだと」。

マルティン・ルター「コリント1書注解」より。1532年9月22日午後の説教
posted by かたつむり at 19:46| 神奈川 ☀| マルティン・ルター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする