2018年08月08日

命のパン主イエス

「命のパン主イエス」2018年8月5日聖餐礼拝説教



《パンの奇跡》

 主イエスのパンの奇跡。5000人の給食と呼ばれますが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書に記されてあり、5000人の人たちが、パン5つと魚2匹で満腹し、しかも残ったパンの屑を集めると12の籠がいっぱいになったと言うのです。マタイ15章、マルコ8章には4000人の給食の奇跡の記事もあり、こちらは7つのパンと魚少しばかりで満腹し、残ったパン屑は7つの籠にいっぱいになったと記されます。12の籠、7つの籠、それは十分な、たくさんの量、あるいは大切な数字である12、7で表されていると考えられるのです。

 今もあるでしょうか東京の作業所がクッキーを焼いていて、そこには5つのパンと2匹の魚のしるしがあり、わたしも購入してプレゼントしたことがあるのです。5000人の給食の奇跡は、イエス様の象徴的な奇跡です。イエス様が、神様が私どもを養って下さることを示す奇跡です。そしてさらには聖餐へともつながって参ります。もちろん最後の晩餐が直接聖餐へと結びつくのですが、ヨハネによる福音書には他の福音書のような最後の晩餐の記事がないからとも言われるのです。


《ヨハネのパンの奇跡》

給食の奇跡が聖餐を示していること。ヨハネ福音書のこの記事を読めばわかるのです。ヨハネだけが伝えますフィリポを試みるためという部分ですが、パンの奇跡の背景をフィリポの言葉を通して知ることができるのです。

フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 (ヨハネによる福音書第6章7節)

満腹するどころかめいめいが少しづつ食べるためにも200デナリオン。良く言われます。1デナリオンは1日分の賃金でした。

主イエスはこのような大きな量の給食を実現なさいました。もうひとつ印象的なのは給食の奇跡の後、主イエスの「少しも無駄にならないように」という言葉です。同じヨハネ福音書の。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(同3章16節)

の「一人も滅びないで」と同じ言葉なのです。

給食の奇跡にはただ食べ物を備えて下さるだけでなく、私どもを養ってくださるばかりでもなく、私ども誰「一人も滅びない」ために、という大きな救いのメッセージも込められていると言うのです。

人々はこの奇跡を見て「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(同14節)と言います。終わりの時に来る偉大な預言者、それがイエス様だと言い出したのです。人々はイエス様を王にするために連れて行こうとさえします。そこで山に逃れられたのでした。

《パンの奇跡の人間的理解》

 ルカ、マタイ福音書を皆さんと一緒に読みました時にも申し上げましたが、イエス様の奇跡について、人間的に理解をしようという考え方があります。奇跡ではなく人間的にです。それはひとりの子どもが食料を差し出した時、実は、隠し持っていた大人たちも出さざるを得なかった。大人たちの恥ずかしさ、罪へともつながる出来事だと読むのです。でもわたしはこれを読み込みすぎだと思います。ここに記されるのはイエス様の奇跡なのです。私どもの養い。さらには聖餐へとつながる奇跡以外の何ものでもないとわたしは思います。

《イエスは命のパン》

 マタイやマルコと同じく、ヨハネ福音書もすぐにイエス様が湖の上を歩く奇跡について記します。そしてヨハネ福音書ではすぐに、これはヨハネに独特の、パンの奇跡の解釈が記されるのです。

 みなさまとわかちあう読書会で読みます熊澤義宣先生の先生でありますギュンター・ボルンカムという先生がおられます。もうずいぶん昔の書物で、日本語にも翻訳されました信徒向けの入門書「新約聖書」という書物があるのですが、これは覚えておいて良いと思いますのは、今日のところではじめて出てきました、「わたしは……である」というイエス様の言葉についての記述です。

 ヨハネによる福音書に独特のイエス様の言葉、わたしは、命のパン、世の光、良い羊飼い、復活と命、道、真理、命、まことのぶどうの木、という一連の言葉があるのですが、ボルンカムという先生はこんなことを記されているのです。

「これらの言葉はすべて約束であり、神のわれわれに与えようとするものであって、あなたがたの探しているもの、人間がその飢餓の中にあって真の生命として求めているもの、それはわたしだ、ということを述べているのである。
 しかし、これらの言葉は、それと同時に、世界がそれによって満足している代用品としての生命と救いに対する決定的な否でもある」(佐竹明訳219頁以下)


わかりやすく言い換えます。

イエス様の「わたしは……である」との言葉は約束の言葉だと言うのです。イエス様が、神様が与えると約束してくださる言葉だと言うのです。

しかもヨハネによる福音書独特の言葉遣いで、イエス様が「わたしは」、「命のパン」、「世の光」、「良い羊飼い」、「復活と命」、「道」、「真理」、「命」、「まことのぶどうの木」、「である」とおっしゃいます時には、これら「命のパン」、「世の光」、「良い羊飼い」を、私どもは飢え渇くように探し求めている、と言うのです。

そしてその探し求めているもの、それはイエス様のことだと言うのです。

そしてさらには、これらのものには代用品があるかもしれない。腹を満たすもの、この世のリーダー、あるいは、この世界での真理、と思われるものがあるかもしれませんが、それらはすべて足りない、それではだめだ、と言うのです。

本物、まことにたるもの、それは私どもの主イエスに他ならない。

それが「わたしは……である」とヨハネ福音書に繰り返し出て参ります、イエス様の言葉の意味だと言うのです。
posted by かたつむり at 19:16| 神奈川 ☔| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月28日

永遠の命を与える主

「永遠の命を与える主」2018年7月22日主日礼拝説教



《ベトザタの池》

ベトザタの池で起きた出来事を前回みなさまと一緒に読みました。松永希久夫という先生のお名前をご存じの方も多いと思うのです。私が東京神学大学の学生であったころに学長をされていた先生でした。
ずいぶん前になるのですが、松永先生がヨハネによる福音書の注解を記されています。ベトザタの池で癒やされた人、否、38年間病気に伏せっていた人について、次のように記されていたのです。
38年間という「長い期間にちやされた病人や家族の汗と涙と祈りと経済力を考えざるを得ない。その間に心身共にすり切れ疲れ果てて横たわっている彼にとって、おそらく、もはや自分にはいやされる機会はない、だれも助けてはくれないという実感が全身を浸していたであろう。それは静かなる絶望、あるいは絶望への安住であったわけである。その彼の答えが。
「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(ヨハネによる福音書第5章7節)
という言葉である。それは救いへの絶望と共に隣人への絶望である。だれも自分を池の中に連れて行ってくれない……池のかたわらにいやされるべく身を横たえ水の動くのを待っている……もはや救いがないことを暗黙の了解事項として彼は横たわり続けている。彼の中には希望が失われつつあり、救い手への信頼もない……そこに救いがあると約束されている場所に身を置いて38年も求め通いつめている。天使が来て水をかきまわしたら池に入ろうと身構えているが、何も起こらない。水が動いたときその恩恵に浴するのは他人であり自分ではない……」
イエス様がこの人と出会ってくださったのは、そういう状況であったと松永先生は記されているのです。
イエス様の「良くなりたいか」との問いは、ですから、この人がもともといたはずのところに引き戻す、そういう言葉だったと言います。
本当に、真剣に、救われたいのか?
そのように罪によって朽ち果て、救いがなく、絶望にすら安住してしまっているこの人をイエス様の言葉が救う。そういう出来事であったと言うのです。
ここに私どもの、もしかしたら落ち込んでしまうかも知れない、そういう姿があると思います。
救いがない。絶望にすら安らかに住まってしまう。

しかし、そこに、イエス様が来て下さる。私どもを救って下さる、お言葉を与えて下さる。それがベトザタの池で起きた出来事だったのです。
今日、私どもに与えられています箇所は、このベトザタの池で起きたことと無縁ではありません。さらにその前に記されておりました、ユダヤの王の役人の息子がいやされる物語とも無縁ではありません。
イエス様が、文字通り、命を与えてくださった。そういう二つの出来事だったのです。

《命を与える子なるキリスト》
今日、私どもに与えられておりますのは、イエス様が、キリストが、私どもにまさにその命を与えて下さる。そのお言葉を与えて下さる。そういう箇所なのです。
そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。(同19−21節)

不思議なのは、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」とイエス様がおっしゃっていることです。
子とは、イエス様です。父とは、言うまでもなく、父なる神様のことです。
父なる神様に、完全に従属されるイエス様の言葉です。父なる神様がなさることを見なければ、イエス様は自分から何もできないとおっしゃるからです。
ただ、言われますのは、ここでイエス様がおっしゃっていることは、神さまとイエス様のご一致。イエス様が神さまと完全に重なっていること。イエス様が神さまと一致している。そのことをイエス様がおっしゃろうとしているのだ、と言うのであります。
父なる神。子なる神ということだと言うのです。そしてこの、子なる神様。御子イエスということがヨハネによる福音書ではとても大切な事柄となるのです。
神様と完全に重なる、完全に一致するイエス様が、私どもに命を与えてくださる。ユダヤの王の役人の息子のように、ベトザタの池で38年間苦しんでいた人のように、私どもに命を与えてくださるのです。

《アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う》
ここで、今日、私どもに与えられています箇所に、繰り返し3回、「はっきり言っておく」と記されていることです。これはまったく聖書の翻訳の問題ですが、ここには、新約聖書のギリシャ語で、アーメン・アーメン・レゴー・ヒューミンと書かれてあり、私どものヨハネによる福音書に特徴的な言い回しであるのです。
アーメンという言葉はわかると思います。私どもが礼拝の中で繰り返し告げる言葉、まことです、その通りです、という言葉です。新共同訳聖書では、はっきり言っておくと訳されましたが、直訳すれば、まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う、となるのです。
加藤常昭先生は、むしろ、アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う、と直訳を超えて、そのまま原典の言葉を残した方が良かった、とおっしゃっています。
加えるなら、もうしばらくしたら出版されると思います、聖書協会の新しい聖書では、まさに加藤先生が願われたように、アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う、となっています。まだ最終版ではありませんが、新しい聖書では、そのようになるのではないかと思うのです。

《三つの大切なこと》
さて、イエス様が、はっきり言っておく、むしろふさわしい訳し方なら、、と3回もおっしゃって、告げられるのは、その3回の箇所で三つのことだと言われます。
5章19節以下の、はっきり言っておく/アーメン、アーメン、わたしはあなたがに言うでは、すでに申し上げましたように、
「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」(同19節)
父と子とおっしゃるのですが、それは御父と御子イエスの同一性、イエス様と神様が、子なる神様、父なる神様として完全に一致、同一である、ということ。
断固としてイエス様が神様と等しい者であることをおっしゃっているのです。そしてそのことが、前々回のところにありましたように、ユダヤの人には絶対に受け入れられなかったこと、だからイエス様の命がねらわれてしまったのでありました。

二つ目の5章24節以下の、はっきり言っておく/アーメン、アーメン、わたしはあなたがに言うは。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(同24節)。
まさに、永遠の命を与えるイエス様ということです。
さらに三つ目5章25節以下の、はっきり言っておく/アーメン、アーメン、わたしはあなたがに言うは、
「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」(同27節)。
終わりの時のさばきがイエス様に与えられていることなのです。

《永遠の命を与えるキリスト》
先週のところで申し上げました。ベトザタの池で起きたこと。そのキーワードは、「起き上がりなさい」(同8節)でありました。そしてその言葉は、復活、イエス様のご復活と同じ言葉なのです。
先週のところと今日のところをあわせて、ですから大切なキーワードは、起き上がる/復活だと言われます。
今日のところでイエス様が御自身の復活について語られるのは、御自身がいやされた、命を与えたと申し上げました、御自身のわざとあわせて、イエス様が命を与えて下さる方であることを自ら告げられるのです。
「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(同21節)。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(同24節)。
そして、そのことは、永遠の命を、私どもにくださる、ということと深く関わっているのです。
では永遠の命ということを私どもはどのように理解すれば良いのでしょうか。
もう何度も何度も皆様と分かち合っていますが、そのひとつの手がかりは、ハイデルベルク信仰問答です。

第22主日
問57 体のよみがえりは、どのような慰めをあなたに与えますか。
答 私の魂が、この生涯の後に、直ちにかしらなるキリストのもとへと受け入れられる事です。
 そればかりか、私の肉体もまた、キリストの力によって甦らせられ、
再び、私の魂と一体となって、キリストの栄光の体と同じ形になるのです。

そして永遠の命の条項です。
問58 永遠の生命の箇条はあなたにどのような慰めを与えますか。
答 すでに今、わたしは永遠の喜びの始まりを私の心の内に感じています。
 この生涯の後に、わたしは人の目も未だ見ず、人の耳も未だ聞かない、そして誰の心にも浮かんだことのない完全な祝福を持ち、そのうちにあって、神を永遠に讃美するのです。
今、もう、永遠の喜びの始まりを私どもは与えられている。
そして、この生涯の後に、わたしは人の目も未だ見ず、人の耳も未だ聞かない、そして誰の心にも浮かんだことのない完全な祝福を持ち、そのうちにあって、神を永遠に讃美する。
永遠の命とは何ですか、と問われます時に、私はいつも、この箇所を思い起こし、また分かち合おうとするのです。
加藤常昭先生が、こんなことをおっしゃっています。
「私はもう何年伝道してきたかと思いますけれども、〈永遠のいのち〉をきちんと説明することは至難の業だと今でも思っています」(ヨハネ1、420頁)
そうおっしゃって、イエス様が永遠のいのちなどについては説かないで、愛についてだけ説いてくださったら牧師はどんなに楽であろうか。こんなことさえおっしゃっているのです。
愛を説明することは、ある程度は理解できる。そして愛に生きた方たちのいろいろな例話をすれば、それだけで愛とは何かということが分かるでしょう、とおっしゃっているのです。
〈永遠のいのち〉とは何ですか。そう問われれば、途方に暮れる、とさえおっしゃるのです。
そんな時、今日の箇所が手がかりになると加藤先生はおっしゃいます。先ほどの。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(同24節)。
このイエス様のお言葉から、
永遠のいのちというのはよくわからないかもしれないけれども、ひとつはっきりしていることは、主イエスのお言葉をきちんと聴き取ること、それが永遠のいのちに生きる鍵となるということだ、とおっしゃるのです。これは永遠のいのちを願う、いやもう永遠のいのちに生きております私どもにとって、大きな手掛かりだと思います。
加藤先生はおっしゃいます。
「皆さんにお願いすることは、私が取り次いでいる主イエスの言葉を聞き取ってほしい。これを信じてほしい。このイエスは神から遣わされた方です……信じてほしい。そうしたらあなたも永遠のいのちに生きているのです。」
posted by かたつむり at 21:14| 神奈川 ☔| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月29日

天が開くのを見る

「天が開くのを見る」2018年5月20日ペンテコステ聖餐礼拝説教 楠原博行牧師



《洗礼者ヨハネ》

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネによる福音書第1章29節)

ヨハネはそう腕を伸ばし、指を差して、イエス様のことを、こう告げたのです。これがヨハネの証しでありました。ついにヨハネは、この信仰により命を失うほどなのですが、証し人、イエス様を証しする人として、私どもの目の前で、イエス様を指し示します。

私どもの、そしてすべての人々の罪を取り除く、そしてそのためにみずからを犠牲にされ、十字架で死なれたイエス様を、こう言って証ししたのです。

私どものイエス様を指し示す指は、その腕は、どのようなものだろうかとも問うたのです。どんなにふるえていても、私どもが指さすイエス様のお姿はただ一つに違いありません。

さてヨハネによる福音書を読み進め、場面は変わります。再びヨハネがイエス様を見つめる。そして言ったと言うのです。

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。(同35、36節)

イエス様を見かけるたびに、ヨハネは、こう証しをしたということでしょうか。

「歩いておられるイエスを見つめて」という言葉に心ひかれます。

「見つめる」という言葉を辞書で調べますと、何かをまっすぐに見る。だから一心に見る。見つめる。そういう意味の言葉です。

なぜヨハネはイエス様を見つめたのかと考えてしまうのです。何度も見かけていたはずなのに。ただ親しみをもって、私の救い主として、イエス様を見つめているのだと考えれば、私どもも同じだと思います。このお方が、このお方なら、との信頼のまなざしを私どもも向けるに違いないからです。ヨハネはふたたびあの言葉を口にしました。

「見よ、神の小羊だ」。それは私どもにおきまして、ああ、このお方が、私を救って下さる方。私のために十字架にかかれたお方だ。そういう言葉となるのに違いありません。


《主イエスの召命》

二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。(同37節)

ルカ、マタイによる福音書はすでに読み終えましたと先週も申し上げたのです。

ですから、たとえば、あのルカによる福音書のイエス様の弟子たちの召命の物語と、このヨハネの召命物語とはどんなにか違うものかと思わないではいられません。

夜通し働いたが、何も取れなかった漁師シモン、後のペトロが、イエス様から漁をしなさいと命じられたのでした。期せずして大漁になり。驚き恐れるシモン・ペトロにイエス様は言ったのでした。

……「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
(ルカによる福音書第5章10、11節)

厳しさと、イエス様への絶対的信頼と、イエス様の弟子としての歩みだし。

これらを告げるイエス様の弟子たちの召命物語と、私どものヨハネによる福音書の弟子たちの召命とのずいぶんな違いであります。

ただある人は言うのです。後にイエス様の弟子になった人たちの中に、かつてはヨハネの弟子であった人たちがいた。イエス様の召命を直接受けたとき、だからイエス様のことは知っていた。むしろだから、「すべてを捨ててイエスに従った」ということができたのではなかったか。ヨハネが「見よ、神の小羊だ」と指し示してくれていたから。「すべてを捨ててイエスに従った」ということができたのだ、と。


《弟子たちの信仰》

ヨハネによる福音書が記す、弟子たちの召命の物語は、

だからむしろ弟子たちのイエス様に対する信仰を書き記していると言われるのです。

ですからそのような目で見ますと、わかってくることがあるのです。

ルカ福音書のようでなく、すべてを捨てて従う弟子たちの姿ではなくて。


アンデレは兄弟シモン、つまり後のペトロに言うのです。

「わたしたちはメシア・・『油を注がれた者』という意味・・に出会った」(ヨハネによる福音書第1章41節)

と言った。


フィリポも言うのです。
フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」(同45節)

そしてナタナエル。

ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(同49節)


すべてを捨てて従う弟子たちの姿ではなくて、主イエスがどのようなお方であるかを口々に言い表す弟子たちの言葉が記されるのです。

これがヨハネによる福音書のひとつの特徴であります。

考えてみますと、1章の洗礼者ヨハネからはじめて、イエス様がどのようなお方であるか、その言葉が次々の記されるのです。


《天が開ける》

イエス様はナタナエルにおっしゃいます。


もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(同50、51節)

天が開けるということはどういうことでしょうか。

神の天使たちが、人の子、とは独特の言い方で、イエス様のことですから、イエス様の上に天使が昇り降りするというのです。それをあなたがたは見る。そうイエス様はおっしゃいます。

私が思い浮かべるのは、旧約聖書創世記です。ヤコブの物語です。我が家で過ごすことができなくなったヤコブが、いや、自らの謀略のせいで、命さえねらわれることになったヤコブが、逃亡したのです。その旅先で、天使が昇り降りする場所にたどり着いたのです。
ヤコブが言ったように、そこは神様がおられる場所だと言うことです。

ですからイエス様の上に天使が昇り降りすると言うのは、イエス様こそ、神様がおられるところだと言うことです。

ナタナエルにおっしゃった言葉は、この私、イエスにおいて、神がおられる。それを見る。そうおっしゃったのに他ありません。


今日は、ペンテコステです。これも使徒言行録を通して読んだ通りです。

天に昇られたイエス様が、教会のカレンダーでは、それは今年は5月の10日だと申し上げました。そして今日5月20日。イエス様がお約束してくださった聖霊が与えられたことを祝う日なのです。

弟子たちに聖霊がくだされ、私ども教会に聖霊がくだされ、今、ここ、私どもにも聖霊がくだされている。そう私どもの信仰は証しします。

まさに神様、イエス様、そして与えられる聖霊。私どもの中で働く聖霊。まさに天が開かれていると言うことに他ありません。



《聖霊なる神について》

聖霊について。あとひとつ思い起こしていただければと願います。
ちょうど一年前、加藤常昭が来て下さいましたときに、先生の先生であるルドルフ
・ボーレン先生の「天水桶の深みにて」という書物の話しをしてくださったのです。
ボーレン先生が奥様を亡くされたとき、ハイデルベルク信仰問答の言葉により支えられたこと。そううかがったのです。その言葉とはこうでした。

聖霊は、わたしにも、与えられています 。

今日、ペンテコステの日は、このことを私どもに思い起こさせる日なのです。

聖霊が、みなさんに、あなたにも与えられています。

私どもも、このわたしも、聖霊を与えられ、信仰者として、支えられ、力づけられ歩むことができるのです。
posted by かたつむり at 16:56| 神奈川 ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月14日

見よ、神の小羊だ

「見よ、神の小羊だ」 2018年5月13日浦賀教会主日礼拝説教 楠原博行 牧師




《証し》
さて、ヨハネの証しはこうである。(ヨハネによる福音書 第1章19節)

この「証し」という言葉、これは殉教を意味する言葉と同じ語源の言葉なのです。

証し、とは殉教を意味する言葉です。

愛用しております新約聖書の辞書では、

死を招く証し、殉教の死、殉教、という記述もあるのです。

ただここ1章19節が言うヨハネの証し、の証しは、私どもが教会で使う証し、証言、何よりもイエス様についての証し、証言、そういう意味で用いられているに違いありませんが、すでにマタイ、ルカによる福音書を読み終えております、私どもは、この後、イエス様についての証しをした洗礼者ヨハネがどうなったかを知っております。サロメの事件に巻き込まれ、ヘロデ王に殺されてしまうのです。ですからヨハネの証し、イエス様についての証しは、ヨハネに死を招いた証しであったに違いないのです。

《ヨハネの証し》
ヨハネによる福音書1章19節以下が記すヨハネの証しとは次のようです。

さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。(同19−20節)

ヨハネに対して、「あなたは、どなたですか」と尋ねたのです。ヨハネは答えます。「わたしはメシアではない」と。

旧約聖書の時代から、人々は待ち望んでいたのです。メシアを。メシアとは英語のメサイアという言葉の方がなじみがあるかもしれません。救い主と訳されます。もともとは油注がれた者、王様を意味する言葉ですが、人々が待ち望む、救い主を意味する言葉となっていたのです。

救い主がこの世に現れる時には、歴史的な預言者エリヤが現れるとも信じられていました。

何よりもあわせて読みました旧約聖書マラキ書3章23,24節に、こう書いてあるからです。

「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。」

この箇所を見て、みなさんはどうお思いになるでしょうか。簡単なことなのです。旧約聖書の一番最後の言葉だということです。

ですから、私どもにもわかるのです。旧約聖書が記す希望が、このエリヤを遣わす、で終わっている。

だからイエス様の時代、人々は、あのエリヤが、今来るか、今来るか、そう思って待っていたに違いないのです。

だから人々はヨハネに「あなたはエリヤですか」とも尋ねたのです。ヨハネの答えは「違う」でありました。

人々はさらに尋ねます。

「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」(ヨハネによる福音書 第1章22節)

ヨハネは旧約聖書イザヤ書の言葉を告げます。

ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(同23節)

ヨハネはこの世の荒れ野で叫ぶのです。主なる神様の道をまっすぐにせよと。

そしてそこをイエス様がお通りになる。ヨハネはまさにイエス様を証しするために、この世に現れたのです。

《個人的なこと》

今日はいくつか私のずっと若い頃の話しをすることになりますことをお許しいただきたいのです。

私が学生時代に集っていた教会では、洗礼を受けるとき、洗礼式に臨むとき、

自分の言葉で記した信仰告白を読むきまりになっていたのです。



もう30年以上前の出来事ですが、つたなくも、自分の信仰を語ったのだと思います。

私どもは、特別な会として、証し会、というのを持たないかもしれないと言いました。

してもいいのです。実際、仲間の教会、あるいは集会では、行われているところもあるからです。

でもそれよりも、何よりも、

私どもの証し、いや証言はなにか。

ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言しました。

先週も、その前も、私どもが、イエス様を、いやイエス様の十字架を指し示す指は、

手は、腕は、どんなものだろうか、と申し上げたのです。

いや私どものからだ、私どもの生活、私どもの生涯が、

もうぜんぶがぜんぶで、イエス様を指し示しているのではないかとも思うのです。

《読書会》
今日、この礼拝後に、恒例になっております春の修養会を持ちます。

そして教会総会で申し上げましたように、今年は、ベタニア会をも含めて、皆さんと読書会のようなものができないかと願っていたのです。

ただ一冊の書物をそれぞれが購入するのは、負担もありますし、また手頃でありながら、ふさわしい書物を見つけることができませんでした。

そこで、私自身の、手もとにあります、出版は必ずしもされていない、文書を皆さんと分かち合うことができればと願ったのです。

それは私の先輩、知人が、記した信仰の言葉です。最初に読みたいと願いましたのは、私の先生の一人であります、熊澤義宣先生のNHKラジオで放送された「病床からのメッセージ」という一文です。

繰り返し紹介しておりますのは、熊澤先生が病を得て、病院のベッドの上で動くことが出来なかったときの、信仰の言葉です。

他に、加藤常昭先生が、私どもの教会に語ってくださった言葉も改めて読みたいと思いました。また私自身も、繰り返し紹介しております讃美歌詩人パウル・ゲルハルトを少しくわしく紹介したいとも願っています。さらに、私の友人と言っても許されると思うのですが、しかし海外で大きな働きをされ、ほんとうに若くして亡くなられた東海林朱美さんの文章を、紹介しても良いと、原稿をいただいた当時衣笠病院におられた方のお許しもいただいたのです。

どれくらいかかるかはわかりませんが、少しずつ、私の知人ということがあるのですが、信仰の言葉を、皆さんと分かち合いたいと願っています。

今、長老会の許しを得て、毎月一回、東京の国分寺、加藤常昭先生のご自宅のすぐ近所でありますが、読書会に参加させていただいています。それを始めるにあたり、加藤先生がこんなことをおっしゃったのです。

文章を読むのは楽しみだが、読むことを通して、それを記した人と出会う、とおっしゃるのです。

そしてその出会いを通じて、私どもの人生を生きるのだと。



私どもはヨハネによる福音書を通じて、洗礼者ヨハネに出会い、あらためて、主イエスにお会いすることになります。

私どもが信じているイエス様に、あらためてお会いし、そしてまた、すでにお会いした、私ども自身の信仰の人生をみつめることになると思うのです。

最初に、証しとは、英語の殉教を意味する言葉と同じだと申し上げました。。

私どもがイエス様のことを証しする、回りに、人々に告げる言葉は、殉教という言葉からわかるように、直接、私どもの命を危うくするようなことはないかもしれませんが、

私どもの生活、私どもの人生、そして人間である限り、この世を去って行く死に至るまで、私どもが、このからだすべてでもって、イエス様を語り伝えていく、そのような生き方、存在であるに違いありません。

ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言って指を指したのです。

私どもも、この腕でもって、手で持って、指でもって、たとえどんなにふるえていても−−これも紹介したことがある、私の親しい方の言葉ですが−−たとえどんなにふるえていても、お一人の方、私どもの主、イエス・キリストを、指し示している、そんな証しをする者の生き方を歩んでいるに違いないのです。
posted by かたつむり at 20:08| 神奈川 ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月30日

このことがどれほど慰め深いものとなることか

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
(コリントの信徒への手紙一第15章54−55節)

 「死は勝利にのみ込まれた」。聖パウロはこれらの言葉が聖書の中にあると述べます。実際のところ私は聖書のどこにあるかを知りません。ホセア書から取られたものだと思われますが、13章14節は次のように読めます。「陰府の力からわたしは彼らを贖うだろうか?死から彼らを救うだろうか?ああ、死よ、わたしはおまえの毒となろう。ああ、陰府よ、わたしはおまえの疫病となろう。」これはつまり、「おまえを殺して、おまえをなき者にしてやろう」ということなのです。聖書の中で、毒とか疫病というのは、死をもたらす悪でありますから、人をただちに破壊し、殺すのです。たとえば、最も毒の強いへびに噛まれたり、高熱にやられたり、疫病に感染したりすればです。へびに噛まれれば、高熱をもたらすのは当然なのです。聖パウロはおそらくそのことを考えており、言葉を加えてパラフレーズしているのです。
……
「私が自分で行おう」と神はおっしゃいます。「私があなたの死となり、あなたの疫病となろう。」神はこの死、疫病という醜い言葉を、ご自身にあてはめて用いられるのです。そしてこのことがどれほど慰め深いものとなることか。いったい何を、どなたのことをこの言葉でお呼びになるのでしょうか。神は自然の敵ではありません。いいえ、神は自然を助け、その敵を、死と悪魔を征服しようとされるのです。神はわたしたちの惨めさに同情されています。わたしたちが今、悪魔の毒と死とにのみ込まれ、沈み込んでしまって、自分では出て来れなくなっているのをご覧になったのです。

ルター「コリント1書注解より」

posted by かたつむり at 21:59| 神奈川 | マルティン・ルター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする