2013年02月16日

ドイツの受難節 ファステンツァイト

ドイツのファステンツァイトには、様々な習慣があるのです。

教会の暦を読む
posted by かたつむり at 22:52| 神奈川 ☀| 教会の暦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月13日

灰の水曜日

今年は2月13日が灰の水曜日です。

教会の暦を読む
posted by かたつむり at 17:05| 神奈川 ☀| 教会の暦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アブラムの赤面(創世記12章10−20節)

わたしたちと同じように、アブラムも信仰の試練に屈してしまったと言います。
しかし主なる神はここに介入された。そして罪人を打たれた。

しかもアブラムは何も言葉を発しない。それをこの牧師はアブラムの赤面であると言います。神様はアブラムを地獄の底に追いやる代わりに、家路へ、カナンの地へと返されたのだと言うのです。

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posted by かたつむり at 16:53| 神奈川 ☀| 創世記を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キリストがいやしてくださる(使徒9章32−43節)

私どもは死ぬということから逃れることはありません。この地上で生きている限り、必ず、死ぬということを経験しないではおれないのです。愛する人を失ったとき、私どもは悲しく思います。今、女性たちは、その愛する人を失った悲しみを、泣きながらペトロに訴えているのです。



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posted by かたつむり at 16:02| 神奈川 ☀| 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月08日

なぜとどまるのか なぜ人々の心を挫くのか(民数記32章6−7節)

「キリストのもとには、最前線も、休戦も存在しない。すべての者たちが最後の戦いに招集されたのではなかったか?私どもすべてが、自らのからだを犠牲としてささげることを求められているのではないか。生きている聖なる神の御心にかなう者として。

しかし愛する友よ、私どもはとてもすばらしい経験をするのです。私どもが先頭に立っているわけではない。なぜなら先頭に、私どもの前に、なお、お一人の方、ただお一人の救い主が立っておられる。私どもが攻撃されても、私どもはこのお方の上に倒れる。まず最初にこのお方の御手の中に倒れることになる」(ヘルマン・クルキスト・ヘッセ)。



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posted by かたつむり at 19:16| 神奈川 ☁| 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

発展する教会(使徒9章26−31節)


「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。(使徒言行録 第9章31節)

唐突な感じがいたします。しかし使徒言行録に繰り返し出てきます、とても大切なことばづかいです。サウロが仲間になって、教会に対する激しい風が弱まったのです。ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で教会に平和が訪れた。そして教会が発展し、キリスト者が増え続けたと言うのです。教会にとって素晴らしいことです。教会が、各地で平和を手に入れ、教会の中の人々、信仰を持っている人々が、神様を畏れ、聖霊の慰め、支えと勇気とを手に入れ、教会員が神様を畏れ、支えを得ることによって、教会全体の基礎が固まったと言うのです。

ここに大切なことが記されていると思います。教会が発展する。それはただ、教会が大きくなる。力が強くなる。それだけではないということです。

まず神様に対する畏れ、信仰、礼拝があります。そして聖霊の慰め。教会員が揺らぐことのない勇気と支えを得るということです。すると教会自体の基礎が、足腰がしっかりする。そういう言葉遣いなのです。もう教会は発展するしかない。これが教会が発展するということです。数だけではなく、力も信仰も大きくなっていくしかないのです。




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2013年02月02日

この人こそ神の子である(使徒9章19−25節)

ドラマの中の二人は必死です。綱がきれそうだし、サウロの追っ手も迫ってくる。
二人は言うのです。神の助けがあると。ちょっと無謀じゃないかという思いもするのです。
手の力も限界になり、最後には放してしまい、とんでもないスピードで最後の何メートルかをかごは落下します。でも何とか、足を痛めながらも、サウロはダマスコの町を脱出して、この場面は終わり、「パウロ」第一部がここで終わるのです。

聖書のテキストとはもしかしたら直接一致するわけではない話をしてしまいましたが、
聖書の中に登場して来る人々が、本当に生きていたということをありありと思いめぐらすことができるのです。

聖書の中の人々が、たしかに今も生きている。生きている信仰が目に見えるということです。



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posted by かたつむり at 23:59| 神奈川 ☁| 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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