2013年03月31日

Frohe Ostern

教会の十字架kl.jpg

イースターおめでとうございます
教会の暦 イースターの日曜日 を読む
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2013年03月30日

ブルームハルトの夕べの祈り3月31日

どうか苦しみの中にある者、心配の中にある者、一人ひとりすべてが、あなたが助けてくださいますこと、あなたの恵みとあなたの救いとが、常に私どものまわりにありますことを、経験させてください。

受難週の祈りにふさわしいと思いました。目を上げれば、イエス様が助けて下さる、イエス様の恵みと救いとがいつも私どものまわりにあることがわかる、見えると祈りましたが、今、私どもが見上げるのは、イエス様の十字架です。それが受難週の意味でもあるのです。でもその十字架にこそ、私どもの救いがあり、そこにイエス様の恵みが、神様の愛がまざまざとあらわされているのです。

「神は愛なり」は私どもの教会に掲げられ、今日、私どもに与えられました聖書の手紙の大切な言葉でありましたが、この言葉としばしば共に挙げられる、同じヨハネの名前が掲げられるヨハネによる福音書3章16節の言葉。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

まさこの神様の愛が私どもが見上げる十字架にあらわされているのであります。


ブルームハルトの夕べの祈り3月31日をを読む
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主イエス・キリストの十字架

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主の御受難の金曜日、土曜日を過ごして

教会の暦 受苦日(カールフライターク)を読む カールザムスタークを読む
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2013年03月26日

受難週

GiottoKissJudasKl.jpg

受難週に入りました

教会の暦 受難週を読む
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2013年03月25日

熱心な祈りを(使徒12章1−17節)

不思議な気がします。自分が助けられている。しかも自分の命が助かろうとしているのに、気づかないペトロです。不思議なことです。自分が助けられ、支えられている、その奇跡に気づくことができないのです。そして何もかもが去ってはじめて、そのことに気づくのです。

ペトロにまつわる話には不思議なことが、不思議なおかしさでもってつきまとうのです。
私どもの思いを超えて、神様の計画が働いていくこと、成就するということ。
ユーモアという言葉では表現できない出来事です。



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2013年03月24日

教会の暦 棕櫚の主日/Palmsonntag(パームゾンターク)

Einzug Jesu Giotto kl.jpg

今年は今日、3月24日が棕櫚の主日です。今日から受難週に入るのです。

棕櫚の日曜日、パームゾンタークの礼拝に、手に手に棕櫚の葉をかたどった飾りをもつ人の中を、ロバに乗ったイエス様の像を引いて礼拝堂へと入堂する礼拝が各地で持たれます。このお祝いが町のお祭りになっているところも各地にあります。


教会の暦 棕櫚の主日を読む
posted by かたつむり at 00:20| 神奈川 ☁| 教会の暦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キリスト者と呼ばれる(使徒11章19−30節)

このキリシタン、クリスチャン、キリスト者という、同じ言葉の中で、わたしは改めて「キリスト者」という呼び方がとてもすばらしいと思うのです。

何よりも、「キリスト」というお名前が入っているからです。もちろんクリスチャンにも入っています。クライストというキリストという言葉に、人を意味する英語のアイ・エイ・エヌをつけて、クリスチャンなのです。残念ながら、クリスチャンの中に、クライストが入らないのは、英語の言葉遣いの習慣にしか過ぎないのですが…



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2013年03月16日

神は妨げられない(使徒11章1−18節)

静まる人々。この静まりとは何なのでしょうか。最初のところで、人々は、ペトロを非難したのです。しかしペトロはこれに対して、反論したとか、自分を非難する人と議論をしたわけではありませんでした。ただ順序正しく、目の前で起きたこと、自分に対して告げられたことを、並べて見せたのです。しかし、それはまた、神様の御業を、神様がなさったことを、ひとつひとつ、思い返すことでもありました。そして、神様がなさったことに触れた人々は、それを聞いた人たちは、もう静まるしかない。もう非難はできなかったということです。


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posted by かたつむり at 16:41| 神奈川 ☀| 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月15日

誰でも神は受け入れられる(使徒10章34−48節)

「神さまがペトロに最初の異邦人に信仰をお持たせになる」。そうある注解書のここの部分の箇所にタイトルが付けられていたのです。ユダヤ人でない人が最初にキリストの信仰を持つようになったのはどこかと考えますと、今日のところなのであります。

言ってみれば今日の聖書箇所を読んで、ああ、ここで私ども日本人のところにも、異邦人と呼ばれる私どもにも、ペトロ先生が御言葉を届けてくださるのだと、言えるわけなのであります。



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posted by かたつむり at 20:22| 神奈川 ☁| 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月09日

私たちは神様の前にいる(使徒10章17−33節)

コルネリウスが言うのです。今、私どもは皆、神様の前にいる。こうやって初対面で、はじめて言葉を交わすのです。けれども、それでも、こうして親しく集まるのは神様のみ前にいるのですと。

ああ、今、私どもは、神様のご計画の中に、生かされ、歩んでいる。神様の前にいるのだと知った人びとが描かれているのです。コルネリウスもそうです。コルネリウスの家に集まって来た、大勢の人びともそうです。
そして招かれてきた。ペトロもそうなのです。

ある人は、これは教会の、教会に集まった人びとのひとつの理想的な姿だと言いました。




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まぼろしを見る(使徒10章1−16節)

まぼろしと聞くとき、あるアメリカ人宣教師の先生を思わないではいられないのです。ゴードン・レーマン先生。東京神学大学の私の先生の一人でありました。この先生が、よく幻ということをおっしゃったのです。先生ご自身も、何十年にもわたって、日本の一地方で宣教師としてお勤めになり、その後神学校で教師をしておられたのです。

この先生がまぼろしと言うとき、はかない幻のことでなく、かなりはっきりとしたものを指しておられたのでした。それは計画と言い換えても良いかもしれない。夢、希望と言い換えても良いかもしれない。その先生が幻とおっしゃるとき、聞くわたしに力がわいてくるような、新しい希望を抱かせるような、そんな言葉だったのです。





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posted by かたつむり at 10:51| 神奈川 | 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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