2013年08月22日

ブルームハルトの夕べの祈り 8月25日

まったく微妙ではありますが、「この世に倣ってはなりません」、「心を新たにして」、「何が神の御心である…かをわきまえるようになりなさい」との新共同訳は少々やわらかい表現になっているようにも思われるのです。「この世と同じところに立っていてはいけません!」、「あなたがたの価値観を変えられておしまいなさい」、「何が善いものか検証できるように…」と全く力強い言葉なのです。もちろんルター訳です。ルターのギリシャ語聖書からの翻訳であるには違いないのですが。そしてブルームハルトの祈りの言葉です。

Gib uns Deinen Geist, Herr, unser Gott, und gib uns auch eine Freudigkeit mitzukaempfen, dass das Gute und Wohlgefaellige und Vollkommene auch noch der Welt geschenkt werde.

私どもにあなたの御霊をお与えください。主、私どもの神。そして善く、御心にかない、また完全なことが、なおこの世界にも与えられるために、共に戦う喜びをも私どもにお与えください。


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posted by かたつむり at 21:46| 神奈川 ☀| ブルームハルトの夕べの祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

まことの神(使徒19章23−40節)

そしてこの町に古代の王がアルテミスの神殿を造りました。後に英国の大英博物館の人びとが発掘発見したそうですが、その起源は紀元前700年にも及ぶそうです。何度か立て直されているのですが、後にこの神殿は世界七大不思議に数えられるほどの壮麗のものであったようです。パウロの時代、それを目当てにこの町を訪れる人がたくさんいたのです。当然そのような神殿詣で、あるいは観光客が町を潤していましたし、そのような人々を目当てにした商売、職業がたくさんあったのです。ところが、このデメトリオという銀細工師の言葉にありますように「パウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って」(使徒言行録第19章26節)いることは、銀細工師として、アルテミスの神殿の模型をつくっている人にとって商売をおびやかしかねないものであったのです。

しかし一方で、デメトリオはこうも言います。「彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけている」(同25節)。

結局のところデメトリオにとってのまことの神は、このもうけであったということでしょうか…
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主イエスの名によって(使徒18章24節−19章22節)

信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。(使徒言行録 第19章18節)

最初にこの人たちが考えたことは、キリスト者としていかに生きるかというのではなかったのです。キリスト者として歩むべき、徳目を、善き行いのリストをつくるということではなかったのです。

信仰者としてあるべき姿を示すためであったなら、信仰者としてすぐれた資質を磨くというのであったなら、このエフェソの人々のように、自分たちの悪行をはっきり告白するということはないでしょう。むしろ悪行は隠そうとします。自分の悪い部分は隠して、奥深くしまってしまい、これからはもっと美しい姿を、美しい生き方を外にしめそうとするはずです。

しかしそうではなかったのです。まず神様を恐れることがありました。そして神様の前に自分の陰の部分、醜い部分をさらけ出してしまうことでした。そしてそこから始まるということだと思います。信仰の証しとはそこにあるに違いないと思うのです。

教会の中で、正しい信仰が語られ、祈りがささげられ、何よりも神様があがめられ、キリストが求められる。自分の罪を知り、自分の醜さを知り、自分の悪行を進んではっきりと告白するキリスト者。そのキリスト者としての信仰の証しを見て、はじめて信仰にふれた人々も、まさにエフェソの町で起こったように、新たに信仰に入るのではないでしょうか。

posted by かたつむり at 19:04| 神奈川 ☀| 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月17日

この町には、わたしの民が大勢いる(使徒18章1−23節)

ある聖書の、今日私どもに与えられている部分ををちらと眺めて少しうれしい思いをしたのです。

実は以前手に入れたこの聖書があまり好きではありませんでした。なぜ好きではないかというと、その聖書が色分けされていからです。私どもの主イエスが実際に語られた言葉だけを選び出して赤い字で記してあるのです。ですから本来みな同じく私どもにとって大切であるはずの聖書の一節いっせつの御言葉を何かランク付けするみたいなので好きではなかったのです。

しかし説教に備えていまして、偶然その聖書の今日のテキストの部分を見て不本意ながら少しうれしくなったのです。ほとんど真っ黒な文字の中のちょうど真ん中あたりだけが赤く塗られている。

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

このイエス様の言葉が赤く塗られている。使徒言行録に入ってほとんどのページは真っ黒です。イエス様はもう天に昇られて、この地上で直接お語りになる部分は使徒言行録の中では少ないのです。

posted by かたつむり at 20:52| 神奈川 ☁| 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天地の主(使徒17章16−34節)

今でもアテネに行けば2000年近く前に、パウロが立った場所に行くことができると言います。そればかりでなく、正確に、パウロがどこに立ち、どちらを向いて語ったかわかるのだそうです。

わたしたちが生きているこの場所で、この町で、信仰を持つとはどういうことか。そして信仰を持ち、キリスト者となったなら、どちらを向き、どのように生きれば良いのかを、今、パウロの言葉に耳を傾けつつ、思いめぐらしたいと思うのです。

神は天地の主であるとパウロは語りました。良くわからないお方ではないのです。神を探し求めようとさえすれば、見いだすことができると、パウロは言いました。

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2013年08月13日

神の言葉を宣べ伝える(使徒17章1−15節)

使徒言行録はパウロのことだけを伝えるわけですが、実際には教会の伝道の業を支えた教会員ひとりひとりがいたのです。まだ建てられたばかりのテサロニケの教会でしたが、教会の業を、伝道という仕事をしっかりと支えたテサロニケ教会の教会員がいたということです。

だからこそ安息日に会堂で語られるパウロの説教には特別な大切な意味があるのです(E・ヘンヒェン)。その礼拝のため、説教のために備えられたに違いないということです。安息日の礼拝こそ、パウロの本当の意味での宣教旅行です。ルカは細かくは記しませんが、私どもの教会で言えば日曜日の礼拝の重さがある。そしてそれに備える私ども教会員ひとりひとりがいたのです。

そのように考えると使徒言行録の、一見、旅から旅へ、説教から説教へ、そしてまた迫害、妨害といった騒動ばかりの記述の背後にある、ほんとうの意味での教会の生活が、ひとりひとりの教会員の人生があったと思われ、わくわくしてまいります。

posted by かたつむり at 17:39| 神奈川 ☁| 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月12日

主を信じる喜び(使徒16章16−40節)

看守は、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏します。
思い詰め、死のうとして、そのぎりぎりのところで止められた震えです。
生きろと叫ぶ声を目の前にしたときの震えです。
私どもも経験したことがあるはずの震えです。
自分の力では生きることができないことを知った震えです。
看守は尋ねます。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」

二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
 (使徒言行録第16章31−32節)

まだ真夜中であったにもかかわらず、自分も家族も皆、すぐその場で洗礼を受けたと記されています。
そして喜びが記されます。「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」
家族すべてが手を取り合って喜ぶ姿が描かれます。信じる喜びが語られるのです。
posted by かたつむり at 14:13| 神奈川 ☀| 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

陰府の力にうちかつ教会(マタイ16章13−20節)

ある人がこういうことを言っています。
ペトロ、この岩とは、みなさんの先頭に立つひながたであると。
ですからイエス様はペトロの前にお立ちになると同時に、
みなさんの前にもお立ちになっておられるのです。

「あなたはキリスト、生ける神の子です」とあなたが答えたその時から、
洗礼を受けた時も、あなたの生涯を通じて、あなたに呼びかけ、
イエス様はあなたが必要だとおっしゃって、あなたを、ご自分のものとしてくださっているのです。

イエス様は教会を建ててくださいます。
あなたの働いているところで、あなたの家庭の中にも教会を建ててくださいます。
信仰の仲間を見出すことができます。交わりが生まれ、キリストの教会となるのです。
あのペトロがそうであったように。イエス様が呼び出されたものたちがそうであったように、
私たちはこう祈り願うのだと言うのです。「私は信じます。私の不信仰をお助けください」と。




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posted by かたつむり at 12:19| 神奈川 | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月11日

主を信じる(使徒16章11−15)

使徒言行録を読み味わい続けておりまして、本当に楽しみにしていた箇所がいくつもありました。ひとつは間違いなくペンテコステの出来事、キリストの教会の誕生のところでありますが、また今日私どもに与えられております、フィリピという町での伝道も、楽しみにしていたところです。

宣教の旅をするパウロがひとりの女性と出会い、この人の家を核にしてひとつの教会が生まれる。そしてそれはほんとうにほんとうにパウロが愛する教会に育っていった。その教会誕生の物語です。

私どもの国のさまざまなキリストの教会の誕生と、もしかしたら私どもの浦賀教会もそうかもしれません。とても重なりあってくる。もちろんユダヤの人々やユダヤ教という背景は私どもの国にはなく、パウロ先生もいらっしゃいませんでしたが、もしかしたら、パウロ先生が私どもの日本にやって来たとしたら、まったくとは言えないまでも、同じような出来事が、同じような出会いがあったかもしれない。そういうことを思わせる出来事であるのです。

posted by かたつむり at 07:20| 神奈川 ☁| 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

花婿キリストが共にいてくださる(マルコ2章18−22節)

ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(マルコによる福音書第2章30−32節)

とても良く知られたイエス様の御言葉が出て参りました。この言葉に、私ども自身も慰め、励まされて来たのではないかと思うのです。そう思うなら、私どもはパリサイになり得ません。むしろイエス様に助けていただく、罪深い、弱い人間なのです。そのような人たちのためにこそ、イエス様はおいでになった。イエス様は助けてくださり、まことの信仰へと導いて下さるのであります。

この言葉を本当に慰め深い言葉として聞けるかどうかだとも申し上げました。自分は医者だ、健康だ。自分は正しいという思いがあれば、何の意味もない言葉だからであります。

むしろイエス様が戦われたのはここであります。そしてファリサイ派の人々がイエス様を攻撃したのも、ここなのだと申し上げました。神さまの御前で、自分が正しいと思うか、それとも罪深い者とひれ伏すのか。その分かれ目でもあります。

posted by かたつむり at 00:01| 神奈川 | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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