2013年11月09日

あなたもキリスト者になってほしい(使徒26章19−32節)

今、語っているパウロ自身がそうだと思うのです。エルサレムで命を失ってしまうかもしれませんでした。自分の人生が、残酷にも、暴徒によって奪い去られてしまうかも知れませんでした。しかしそのような危険の中にありましても、私の人生はこれで終わることはありはしない。死を乗り越えてしまう信仰を持っているからですと言える。そのような信仰に生きているのです。ヘロデ王の前での裁判においても、自分の信仰を声高く語ることができるのです。それは、私と共に、キリストがいてくださっている。キリストが生きおられるから。

パウロ自身が、ダマスコの町に向かって、ほんとうに残酷なことを思い描いていたときとは、イエス・キリストを信じている者たちは一人残らずつかまえて引っ立てて行こうと決心をしていた時と今とは、こうも変わっているのです。パウロ自身が、自分の生き方、考え方が、もう天地がひっくり返るくらいに変わった。こんなにもすばらしいものに変えられたと告げているのではないでしょうか。

パウロのこの言葉は、告げる言葉の力強さは、それを聞く人をも変えてしまおうとするのです。だからこそ、アグリッパ王は「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」こう言わないではいられなかったのだと思うのです。



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2013年11月05日

ブルームハルトの夕べの祈り 10月27日

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず…
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
(コリントの信徒への手紙二第4章8、10節)

そして罪と悲しみの、恐ろしい時代を過ぎ去らせてください。すぐにです、そうです、すぐにです。こう言われているのです。「元気を出しなさい。私はすぐに来る!この恐ろしいことすべては過ぎ去らねばならない。私の意志は行われる。わたしの名前は聖なるものとされなければならない。わたしの国とわたしの支配は来なければならない!だから元気を出しなさい。あなたがたの神を天の父をいつも仰ぎのぞみなさい!」と。アーメン。

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神の約束の実現(使徒26章1−18節)

使徒言行録も終わりに近づき、使徒パウロの最後の裁判の場面を読み続けています。いったいパウロは裁判の席において何を語ってきたのでしょうか。前回、前々回と、パウロのふたつの主張に耳を傾けたのです。なぜ自分は裁判にかけられているのか。どうして今自分は捕らえられ、そしてローマの町へと連れて行かれる、その理由について語ったところです。パウロは何と言ったでしょうか。

使徒パウロは第一に、この世において、私どもが決して避けることの出来ない死について、このわたしが死ぬということで終わることは決してないのだという希望を抱いているから、つまり復活の希望を抱いているから、今、この裁判において人々から裁かれているのだと語ったのでした。パウロは、自分が裁かれているもうひとつの理由、第二の理由も挙げていました。それは、今、ここで、キリストが生きておられるということでした。それを私は信じている。だから今わたしは裁かれている。

今日の聖書の箇所で場面が変わります。今度はユダヤの王アグリッパ王の前に引き出され、パウロの裁判はまだ続くのです。今日、特に心にとめたいと願うパウロの言葉は、26章6、7節であると思います。語り口は、やはり、なぜ私パウロが今裁判にかけられているかであります。この前の2回と語り口はまだまだ同じであるのです。

今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。(使徒言行録第26章6、7節)

この神様の約束がかなうことに希望を持っているから。夜も昼も熱心に神に仕えている。その約束が実現することを望んでいるから、今、訴えられ、裁判にかけられているのだと言うのです。

今日は宗教改革を祝う礼拝です。その宗教改革のきっかけとなるドイツ・ヴィッテンベルクの城教会の扉に95箇条の提題を打ち付けた宗教改革者マルティン・ルター。この人は、それまではローマ・カトリック教会の司祭をはじめとする、高度な学問を学んだ人にしか読むことができなかった聖書を、誰でもが読んで理解することができるようにと、ドイツ語と言うことでありますが、当時一般の人びとが用いている言葉で翻訳した、つまり誰もが読めるようにした人でありました。これも宗教改革の大きな意味なのであります。

実はルターが訳した聖書のこの箇所は、「夜も昼も熱心に礼拝に集いつつ、神様の約束が実現されることを望んでいる」と訳しているのです。

まさに、私どもも、今、ここに、神様に仕える礼拝を献げています。それは神様の約束が実現することを望んでいるからだとパウロは言っているのです。
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主イエスは生きている(使徒25章1−27節)

「主イエスは生きている」。これがフェストゥスという人が示したパウロの罪状であったのです。パウロはエルサレムで起きた騒動がもとで捕らえられ、裁判を受けています。その裁判で訴えられた罪状が、

イエスが生きていると、パウロは主張している(使徒25章19節)
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神に対する希望(使徒24章1−27節)

いつかは浦賀教会の墓地を持ちたい、私どもの教会は、そのような願いを持っています。

思い出しますなら私がかつてつかえていた教会の墓地は大正時代にもさかのぼったか、かなり古いものでありました。その中に本当に古い墓石がいくつかありまして、そこには「復活の日まで」と刻まれていました。今日の聖書箇所を思わないではいられないのです。

加藤常昭先生がこんなことを記しておられます。今日、私どもは日曜日に礼拝を捧げています。主日礼拝と呼んでいます。主日、主の日とは、主が復活された日。実に、主イエス・キリストが復活されたことを思い起こして、私たちもその復活のいのちにあずかりたい。その喜びにあずかりたいからこそ、この主の日に礼拝を捧げているのです。

その時、加藤先生は、主日の礼拝とは、いつもいのちのほうを向くオリエンテーションをしているとおっしゃいました。このいのちの方向をきちんと向けるように、私ども自身を整え、準備しているのだとおっしゃるのです。言い換えれば、礼拝に集う者は、いつも死を意識している、そうまでおっしゃっていました。

ただし、それは復活のいのちの中で、自分たちが死ぬべき者であることを自覚するということである。復活の主の光のなかで、自分が葬られる日のことを思い見ている。そのようにして、自分の葬りに備えているのだとおっしゃったのです。

しばしば歌われる「千の風になって」は風になる、光になると言って、私どもの死後の姿を語ります。だから、千の風は、この地上の、もっとも厳しいところ、つらいところ、残酷なところにも吹くのではないかという疑問も生まれるのです。

しかし、私どもが持っている聖書は、私たちが死んだらどうなるかとか、私どもの死後の歩みについては、多くを語っていないのです。天国や地獄などについてほとんど知識を与えません。死んだら魂は、とか死んだら、この肉体はなどという説明もしません。つまり死んだ後についての知識を与えて安心させることをしないのです。語るのは、ただキリストが死なれたこと、そして復活され、死に対して勝利されたことを語るだけなのです。

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神のわざと人のたくらみ(使徒23章12−35節)

今日、私どもに与えられている聖書の箇所、使徒パウロを取りまく陰謀について記されている部分を読みまして、これは人のたくらみの一つの究極だろうと思いました。

前回ご一緒にお読みしました最高法院での裁判、それが行われた夜が明けた時、ユダヤ人たちは密かに集まって陰謀をたくらみ誓いを立てたと記されています。「パウロを殺すまでは飲み食いしない」という誓いです。

四十人以上もの人々が、「パウロを殺すまでは何も食べない」と固く誓い、口実を設けて、パウロをとらわれ先から護送するようにそそのかすわけです。そしてその護送中をねらって、パウロの命を奪ってしまおうという陰謀が計画されたのです。

しかし、この陰謀をパウロの、おそらく姉の甥だろう、パウロとこのお姉さんに当たる人は、年がかなり離れていて、このパウロの甥も20歳を過ぎていた、パウロ暗殺の陰謀を街角で、あるいはパウロのようにガマリエルのもとで、神学を学んでいて、その学校でパウロを狙う計画を聞き知ってしまった。そこでこの甥っ子はパウロが捕らえられている兵営の中に入って来て、パウロに知らせた、と言うわけなのです。

パウロはこの情報を、千人隊長に知らせるよう依頼します。パウロはローマの市民権を持ったローマ人です。暴徒から守るべき義務があるのです。

歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名というものものしいいでたちで、しかもパウロを馬に乗せて、その夜9時に、この地方を実質的に治めているローマ総督のいるカイサリア−−これはローマ皇帝の町という意味の町の名前です−−に護送してしまったのです。暴徒の手の届かないところにパウロを送ってしまったということです。もうエルサレムの町ではありません。ローマ兵の、いわば本隊が駐屯する、カイサリアの町です。

しかも、騎兵たちはカイサリアに到着すると...総督に...パウロを引き渡した、とあります。総督の監督下、名目だけではありましたが、ユダヤの国の王、ヘロデの官邸にパウロは留置されることとなったのでありました。

人のたくらみのひとつの究極と申し上げました。だいたい今日の聖書の箇所に何度、「たくらみ」とか「陰謀」という言葉が出てきたでしょうか。この聖書の箇所の題を付けるとしたら、「陰謀」としか思いつきません。今日の聖書の箇所の最初のところに。

夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた(使徒言行録第23章12節)。

とありました。だいたちこの「誓いを立てる」という言葉からして、人々が大きな声で誓うと言う言葉などではなく、「自分自身を呪う。呪いの下に自らを置く」という意味の言葉が使われているのです。「パウロが生きながらえるならば、わたしも生きていることはできない」という呪いです。だいたい、自分をわざわざ「呪い」の下に置くなどということがあり得るということです。言うまでもなく「呪い」という言葉の反対の言葉が「祝福」です。わたしたちは礼拝の中で祝福の言葉を聞き、求め、また祝福がおこなわれるはずなのです。

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勇気を出せ(使徒22章30節−23章11節)

前回も紹介した注解書。前回の裁判の場面について、「弁明させてください」とパウロは言ったのに、パウロが実際に語ったのは、自分が如何にキリスト者になったかということだった。裁きの場において弁明させてくださいと言ったはずのパウロなのに、そこで語ったのは、むしろ自分が如何にキリスト者として、とりわけ伝道者としてキリストに召されたかということだった。これはおかしいのではないかと書いている人がいると申し上げたのです。

でも不思議に、私にはおかしくは思えなかったとも申し上げました。むしろ私どもが、信仰上の理由で何か非難を受けたり、訴えられたなら、私どもは、自分の信仰の証しをするのではないかと申し上げたのです。私どもはキリストについて語るのです。パウロがここでしていることはぜんぜんおかしくは思えないと申し上げました。

同じ書物の中で、この人は、興味深いことを書いていました。使徒言行録を書いているルカは、ここでパウロの裁判の記録を記そうとしているわけではないと言うのです。ただ過去の、2000年前に行われた裁判の記録を記しているわけではないと言うのです。

そうではなくて、今ある、私どもの問題を書いているのだと言うのです(この人は、ユダヤ教とキリスト教との関係。キリスト者とユダヤ教のファリサイ派の人々は、ギリギリのところで一緒になることができるのだという問題を語って行くのです)が、私にはそれ以上に、パウロの裁判が、私どもの、今のキリスト者としての生活、歩みの問題を告げているのに他ならないと思うのです。

ここで語られるのは、2000年前の出来事であるだけではない。私ども自信の信仰の戦いであり、信仰の歩みであるのではないか、そう思ったのです。

だからこそ、ここでイエス様が現れ、パウロに言葉を語るのだと思うのです。

その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(使徒言行録第23章11節)
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あなたにキリストの声を聞かせるため(使徒21章37節−22章29節)

弁明させてくださいと言ったパウロは何を語るのでしょうか。自分が如何にキリスト者として、とりわけ伝道者としてキリストに召されたかということなのです。

あるドイツ人が書いた注解書なのですが、「弁明させてください」とパウロは言ったのに、パウロが実際に語ったのは、自分が如何にキリスト者になったかということだった。群衆が群がり、パウロを殺せと叫ぶ人々が訴えた、パウロがエルサレムの神殿を汚したという非難。これに対する弁明でなかったではないかと、この人は言うのです。これはおかしいのではないかと書いているのです。

ならもしかしたら研究者によっては、このパウロの言葉は、この弁明の場面。いわば裁かれる裁判の場面で、パウロが語った言葉はこれではなかったのでは、などと結論づける人もいるかもしれないとさえ思うのです。

でも、でも不思議に、私にはおかしくは思えなかったのです。私どもが、信仰上の理由で何か非難を受けたり、訴えられたなら、私どもは、自分の信仰の証しをするのではないでしょうか。キリストについて語ります。キリストと私の出会いを語るでしょう。そして私はこのキリストを信じ、宣べ伝える者です、だからこうするのですと言うのではないかと思ったのです。パウロがここでしていることはぜんぜんおかしくは思えないのです。
posted by かたつむり at 20:58| 神奈川 | 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キリストにある兄弟姉妹たち(使徒21章17−36節)

わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた(使徒言行録第21章17節)。

心から迎え、励ましてくれる兄弟姉妹たちについて、今日私どもに与えられている聖書の箇所は最初に語るのです。

「喜んで迎えてくれた」。そこに暖かくパウロ一行を迎えるエルサレムの教会の仲間たちの姿が描かれていると言われます。調べてみますと、歓迎して迎えると言う言葉に、さらに言葉を重ねて、喜んで迎えることが表現されますのに、さらに喜んでという言葉も付け加え、言葉が重ねられているのです。少々無理がありますが、喜んで、喜んで、喜んで迎える、こんな言葉遣いになっていると言えるのかもしれません。そしてまたこの言葉は、この使徒言行録を書き記した、ルカしか用いていないのです。ルカによる福音書には2回しか出て来ません。イエス様を喜んで迎えるのに一回、そしてイエス様が人々を喜んで迎えて下さった時のことを一回。7回中、後の5回は使徒言行録です。そのうち4回は、キリストの教会にある人々が、仲間を迎える時の言葉として用いられます。

教会は私ども一人ひとりをいつでも、それこそ喜んで、喜んで、喜んで迎えてくれる場所である。今、パウロは決意をもって、そしてまた、ひとつの覚悟をももって、エルサレムの町へとやってきました。そのパウロを、教会は暖かく迎えるのであります。

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2013年11月03日

宗教改革記念日の季節に

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