2014年09月25日

ソドムとゴモラに降る火(創世記19章)

聖書を、特に旧約聖書を読んでいると、この19章のように理解しにくいことが起きることは少なくありません。
紹介したいのは、この物語を通じて、罪を罰しないではおかない神を語ろうとするW. リュティの言葉です。大災害、あるいは人間の残酷なわざ、彼の場合はアウシュビッツですが、そのような悲惨を前にして、すべてをおさめすべる神というものに対する疑問に対抗しようとするのです。

このロトの物語は、明瞭に、神が罪を憎み、罰することを、私どもに教える物語であると彼は言います。そしてまたそのようなさばきを私どもが傍観者として見てはいけないという物語でもあると言います。厳しく禁じられていたにもかかわらず、ロトの妻はそのさばきの光景を見ようとして塩の柱となってしまったのでした。

一方でこの人はロトを正しい人であるが、もろい人、脆弱な信仰者として語り、そのような弱い者がいかに助けられていくかという物語であると説明します。ロト自身自分自身を救うという勇気にさえかけていた。いやいやながらせき立てられて救われるという姿を私どもと照らし合わせるのです。


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posted by かたつむり at 18:58| 神奈川 ☁| 創世記を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神がくださった霊(テモテへの手紙二1章1−8節)

しかしイエス様がいてくださる。あなたを苦しめているものを、黙っている必要はない。語って良い。あふれ出させて良い。イエス様に聞いていただくと良い。

そういう方がいてくださる。
そういう私どもの助け手がここに来てくださっている。

この時代にあって、教会の仲間たちが礼拝に集まる意味はこれなのだ。
私どものなげきを聞くために、ここにイエス様が来てくださっている。
このお方の足もとにひざまずくために、私どもは集まって来ている。
それが聖書が私どもに告げている内容なのだと。

あのテモテとおばあさんの絵です。それは礼拝後の姿ではないかと思ったのです。もうひとつ不思議なのはおばあさんが中空を見ていること。そして何かを指さしているようにも見えるのです。孫のテモテも同じ中空を見ている。それをテモテは見て手をあわせている。イエス様を見ているのだと思ったのです。おばあさんが指し示し、テモテもイエス様を見ているに違いない。

そしてまたそれこそがここに集う、この教会に集う私どもの姿と同じではないかと思ったのです。

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posted by かたつむり at 16:19| 神奈川 ☁| 説教 テモテへの手紙二 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月09日

生ける神の教会(テモテへの手紙一3章14節−4章5節)

「神の家」という言葉について2つの意味があると言われます。

ひとつは建物、ビルディングの意味です。建てられる教会です。15節に「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」と「柱」、「土台」と建築の言葉が出て来る通りであります。教会は建てられなければならない。それはこの教会堂のようなただ建物だけを建てるということだけではありません。教会を建て上げること。それは私どもが集うこの教会の交わりを建て上げることなのです。

そして「神の家」のもう一つの意味、それは、神の家族の意味です。私どもの教会はひとつの家族であると言うのです。そしてまたそれは神様の家族であると言うのです。そしてまた家族と言います時にもう一つの意味もあるのです。それはHaushold「家計」と言うことです。私どもの神様の家、神様の家族の家計、神様の家の切り盛りと言うことなのです。

私どもは教会の会計を自分たちのためだけにやっているのではないのです。神様の家族の家の切り盛りをしている。何と励みになる言葉でしょうか。

たとえ何があろうとも、この世の中がどのように転がろうとも、私どもは神様の家族として皆生きていけるのです。ひとりひとり支え合って、神様の家を切り盛りしていくのです。




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posted by かたつむり at 19:23| 神奈川 ☀| 説教 テモテへの手紙一 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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