2014年12月29日

わたしたちは神の子です(ブルームハルトの夕べの祈り12月28日)

「あなたの御国は私どもの目の前にあるのです。あなたの御言葉、あなたの助けは来るのです。」

神の御国は目の前にあると言います。そしてそれはどういうことか。あなたの神様の御言葉が今ここに与えられている。神様の助けが今ここに来ていることだと言うのです。

「すべてが私どもの目の前に示されますように。それにより私どもが終わりの時を待ち望みますことが生き生きとしたものとなりますように。うれしい、祝福された待ち望みとなりますように。喜びをもって、大きな楽しみと愛をもって、あなたの栄光のために来ます、終わりの時を待ち望みますように。アーメン。」

終わりの時の待ち望みが生き生きとした待ち望みになる。うれしい、祝福された待ち望みとなる。喜び、大きな楽しみとと愛とをもった待ち望みとなる。そう祈るのです。私どもの新しい2015年の歩みがそのような生き生きとした、うれしい、喜ばしい、楽しい待ち望みの日々となりますよう心からお祈り致します。




全部読む
posted by かたつむり at 23:09| 神奈川 ☁| ブルームハルトの祈りとともに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月22日

神の家族(ルカ2章1−7節)

これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(同1章78−79節)。

ザカリアは神のご計画それらすべてが、洗礼者ヨハネ、主イエスによる導きと救い。それらすべてが神の憐れみの心によるのだと歌ったのです。

その神様の憐れみが今どこにあらわれているのか。飼い葉桶の幼子に、家畜小屋の家族に現れているに違いない。そしてその現れ方は不思議であります。見た感じは、はなやかでない。ましてや豊かではない。決して町の中でされているような、明るさや、にぎやかさや、ましてや豪華さなどはまったくないのであります。

しかし2000年も前から人々は、そこに救いを、神様の憐れみの心を見たのです。
本物の美しさ、本物の光を見出したのであります。

しかしそれが現れるところの、貧しさと、そしてこの世的な豊かさの欠けであります。




全部読む
posted by かたつむり at 20:01| 神奈川 ☀| クリスマス礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月15日

神の憐れみの心(ルカ1章67−80節)

「これは我らの神の憐れみの心による」

闇と死の陰から、私どもを救いの道へと、平安の道へと導く。それは神様の憐れみによるのだと言うのであります。

今年のクリスマスカードにはこの言葉を記させていただきました。私どもにはこの憐れみが必要なのです。この憐れみが私どもに訪れることを心から願うのであります。

死と悲しみにも訪れる神の憐れみであります。そして私どもを安らかなる道へと導く憐れみであります。



全部読む
posted by かたつむり at 23:16| 神奈川 ☁| アドヴェント礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月13日

アブラハムの不面目(創世記20章)

しかし皮肉なことが起きます。アブラハムがサラを妹といつわる物語は、説明を加えれば加えるほど、アブラハムの罪が浮き彫りになってしまう、そういう物語なのです。たしかに20章ではサラをハーレムに入れる褒美をアブラハムはもらわないし、サラと王様の間に何があったかなどという詮索の余地もありません。では、なぜサラを妹といつわったのか。それは自分が殺されると思ったからであるというのは12章も20章も同じでありますが「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです」と、アブラハムは断罪していますが、実は正反対なのです。

全部読む
posted by かたつむり at 14:08| 神奈川 ☀| 創世記を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月09日

あなたは神から恵みをいただいた(ルカ1章26−38節)

マリアに告げられたおめでとうとの天使の言葉、恵まれた方との呼びかけの言葉が、信仰の祈りの言葉になったこと。そしてそこには私ども人間の不安や心配事、そして間違いなく家族に対する思いやり、そして時には愛する者を失った時に、その悲しみ、思い、そしてそれをたずさえて人としてキリスト者として生きること。
その姿を主イエスの母マリアの中に見たのだと思うのです。



全部読む
posted by かたつむり at 22:08| 神奈川 | アドヴェント礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月02日

2014年12月01日

愛する兄弟(フィレモンへの手紙 8−16節)

フィレモンへの手紙がやり玉にあげられますのは、パウロが当時の奴隷制度について何も語らなかったからです。パウロは奴隷制度を肯定しているのではないかと批判されてしまうのです。実際歴史的にも、奴隷制度の反対者も、奴隷制度の賛成者さえ、この手紙を拠り所として自らの主張を唱えたそうなのです。でも良く読んでいただきたいとも思うのです。

パウロはオネシモのことを、もはや奴隷ではない、と言っているのです。いや奴隷以上の者だ。つまり愛する兄弟なんだ、と言っているのです。確かにパウロは制度としての奴隷については何も言っていないかもしれません。しかしこの地上の制度や、社会の仕組みなどというものをパウロは飛び越えてしまっているとは言えないでしょうか。




全部読む
posted by かたつむり at 20:26| 神奈川 ☀| 説教 フィレモンへの手紙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。