2016年03月30日

このことがどれほど慰め深いものとなることか

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
(コリントの信徒への手紙一第15章54−55節)

 「死は勝利にのみ込まれた」。聖パウロはこれらの言葉が聖書の中にあると述べます。実際のところ私は聖書のどこにあるかを知りません。ホセア書から取られたものだと思われますが、13章14節は次のように読めます。「陰府の力からわたしは彼らを贖うだろうか?死から彼らを救うだろうか?ああ、死よ、わたしはおまえの毒となろう。ああ、陰府よ、わたしはおまえの疫病となろう。」これはつまり、「おまえを殺して、おまえをなき者にしてやろう」ということなのです。聖書の中で、毒とか疫病というのは、死をもたらす悪でありますから、人をただちに破壊し、殺すのです。たとえば、最も毒の強いへびに噛まれたり、高熱にやられたり、疫病に感染したりすればです。へびに噛まれれば、高熱をもたらすのは当然なのです。聖パウロはおそらくそのことを考えており、言葉を加えてパラフレーズしているのです。
……
「私が自分で行おう」と神はおっしゃいます。「私があなたの死となり、あなたの疫病となろう。」神はこの死、疫病という醜い言葉を、ご自身にあてはめて用いられるのです。そしてこのことがどれほど慰め深いものとなることか。いったい何を、どなたのことをこの言葉でお呼びになるのでしょうか。神は自然の敵ではありません。いいえ、神は自然を助け、その敵を、死と悪魔を征服しようとされるのです。神はわたしたちの惨めさに同情されています。わたしたちが今、悪魔の毒と死とにのみ込まれ、沈み込んでしまって、自分では出て来れなくなっているのをご覧になったのです。

ルター「コリント1書注解より」

posted by かたつむり at 21:59| 神奈川 | マルティン・ルター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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