2015年07月07日

神を愛し召される(ローマの信徒への手紙 第8章26−30節)

ハイデルベルク信仰問答は、ただ一つの慰めを告げて、私どもの救いについて語り、使徒信条から父なる神、子なる神、聖霊なる神について記すのですが、聖霊について語る時、最初に聖霊について記して、その後、では聖霊とはなんだ、どんなものだとは言葉を重ねて記すことはしていないと申し上げたのです。その代わりに記すのは教会についてでした。なぜならキリストの教会の中にこそ聖霊が働いているからです。

ですから聖霊が共にうめき、取りなして下さるとは、私一人では祈るべき言葉さえ失うことがあったとしても、聖霊が働くキリストの教会が取りなすのであります。

……わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

それがもう一つ、大切な意味なのです。


「神を愛し、召される」


フラッシュプレイヤーの見えない方

《うめく私ども》

先週、私どものうめきという言葉を聞きました。うめく、と聞いて良い感じは致しません。うめき、苦しむ。そういう風に使われる言葉であるからです。実際聖書の中でもうめく、という言葉は、私どもが考える、うめく、苦しむ、そのような時のあえぎ声のこと。そういう意味の言葉として用いられていると申し上げたのです。

聖書の中のうめきは悲惨であります。国を失う。自分が住んでいる国がなくなってしまううめきでした。安心して暮らす場所がなくなってしまう。自分の居場所がなくなってしまう。その苦しみにうめくのです。また愛する人を失ううめきです。今まで共に暮らしていた人がいなくなってしまう。その悲しみにうめくのです。

そしてまた、たとえ生きていたとしても、遠く離れてしまう悲しみもあります。しかも生きているうちには二度と会えない。それがわかる。そのような苦しみのうめき。それが聖書が記す、うめく、ということなのです。

国を失ううめきというものを私どもは知らないかもしれません。しかし人のうめきというものは知っていると思うのです。自分が安心していれる場所がない。そのようなうめきを私どもは知っていると思います。

自分に居場所がない苦しみを、誰でも、どこでも私どもは経験します。その際に私どもが口から発するうめきを、誰でもが知っていると思うのです。

そして愛する人を失う悲しみ、その苦しみのうめきから、私どもはのがれることはできないのです。私どもは生きている限り、必ず死からは逃れることができない。

でもそれでもなお愛する人を失う悲しみは、人が死ぬということと向き合う苦しみは私どもをさいなみます。ましてやそれがかけがえのない。愛する人であったなら。自分よりも若い家族であったのなら。その苦しみ、悲しみのうめきを、説明する必要などないと思います。


《パウロの応え》

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。(ローマの信徒への手紙 第8章18節)

前回のところで、そうパウロは記しました。どれだけ苦しみ悲しんでも、現在の苦しみは、未来において、神様からいただくものに比べれば、取るに足りない。そうパウロは記したのです。

私はこの「とるに足りないとわたしは思います」の言葉にこの手紙を書き記したパウロの、文字通り思いがあらわれているのではないかと思ったのです。

パウロは今、この手紙を受け取っている、ローマの信徒への手紙でありますから、今から2000年前のローマの国の人たち。しかもパウロと同じく、私どもが主とお呼びします主イエス・キリストを信じている人たち。2000年前にも、今の私どもと同じようにキリストの教会に集う人たちに書き記したのです。ただ教会と言っても、おそらく当時は、私どもが今集うような教会の建物はなかったのです。多くの町々では個人の家々でありましたし、おそらくローマではどこか人が集まれる場所であった。伝えられているところによりますと、地下の墓地など、人目につかないところであったのです。

長い歴史の中で、さまざまではありますが、当時のローマの国では、たびたびキリスト者の迫害が行われました。命の危険があったのです。

ですからパウロ先生が「現在の苦しみは」と言います時に、その苦しみの内容は、迫害であります。死であります。命を奪われる危険があったのです。その苦しみを知り、その悲しみを知ってなお、「現在の苦しみは」将来神様からいただくものに「比べると、取るに足りないとわたしは思います」。そう言ったのです。

ですから本当に死の危険、苦しみ、悲しみを知っている、その真っただ中に置かれているローマの教会の人々にとって、この「取るに足りないとわたしは思います」の言葉は、励ましになったし、支えになったに違いないと思うのです。そのような中で、パウロは私どもはうめくのだと言いました。

共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(同22節)

そのように現在の苦しみの中、私どもは、共にうめく。共に産みの苦しみを味わっている。

そして耳慣れない言葉が重ねられてもいました。

わたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(同23節)

私どもは「心の中でうめきながら待ち望んでいます」。待ち望むのです。しかし「心の中でうめきながら」待ち望むのです。信仰者の待ち望み、希望は、うめきながら待ち望む希望である。居場所のない苦しみ。愛する人を失う悲しみ。私どもはその苦しみ、悲しみにうめきつつ、待ち望んでいる。

パウロはこうも記しました。

見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。(同24節)

私どもの希望は、今、私どもが見ているようなものではない。

「現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」?もちろん今、目に見えているものが欲しい。手に入れたい。そう希望することもあるかもしれません。あのようになりたい。あのようなものが欲しい。そういう希望も私どもは知っているからです。

でもパウロは言うのです。本当に苦しみ、悲しみ、うめく人の希望はそうではないだろう。うめき待ち望む希望は、うめき待ち望んでいる人の希望は、現に今、見ている、見えている、そのような希望ではないとパウロは言ったのです。

わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(同25節)

そして目に見えないもの。今見えていないものをうめき待ち望む、私どもは、忍耐することができる。今の悲しみ、苦しみを耐え忍び、さらにうめきながら待ち望むことができるのだ。これがうめき待ち望む私どもに対して、パウロが前回のところに書き記した励ましの言葉であったのです。


《私どもの助け手》

見たことも聞いたこともないようなもの。私どもが待ち望む希望は、そのようなものを待ち望む希望であるとパウロは言いました。そしてだから、私どもはうめき待ち望むのだし、待ち望みつつ耐え忍ぶこともできるのだとも言いました。

でも待ってください。それでもなお、私どもは、うめき続けなければならないのでしょうか。苦しみ、悲しみにうめき続けなければならないのでしょうか。人間である限り、この世界で生き、そしていつかは死んでいく限り、それは逃れえないことであることは、私どもにも分かります。でも、でも、と思わないではいられないのです。

そして今日のところで、パウロは、私どもは一人ではないと記してくれているのです。

同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(同26節)

霊とは聖霊のことです。私どもも、もうしばらくしたら皆で口にします、使徒信条に記された聖霊のことです。私どもも信じます、と使徒信条の中で告白します、聖霊のことなのです。この聖霊が、弱い私どもを助けてくれると、パウロは言うのです。そしてこうも記します。

……わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(同)

私どもは祈ります。礼拝の中でも祈ります。これももうすぐ主の祈りという祈りを私ども皆で祈ります。でも祈れない時があるのです。苦しみ、悲しみのゆえに、祈ることができない。そういう時がありますし、私どももそのような祈ることができない悲しみ、苦しみも知っているのです。

でもそのような時に、聖霊自らが助けてくれるとパウロは言うのです。執り成しでありますから、祈れない私どもの仲立ちとなってくれるのであります。

そしてこの言葉です。「うめきをもって執り成してくださる」。

苦しみ悲しみにうめくのはここに集う人間である私どもだけではない。聖霊も同じように、うめいてくださる。そして共にうめいて、助けてくれるとパウロは言うのであります。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。(同28−29節)

この言葉の意味は、前回のところにさかのぼります。8章23節に、私どもがうめき待ち望む内容についても記されていたからです。

わたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(同23節)

私どもは神の子とされる、と書いてあるのです。

……御子が多くの兄弟の中で長子となられる……(同29節)

御子、すなわちキリスト・イエスは神の子とされる私どもの長子、長男であるというのです。

そして30節。

神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(同30節)

あらかじめ定められた者たち。召し出した者たち、と言いますのは、私どものことです。28節では、「神を愛する者たち」「召された者たち」とパウロは私どものことを読んでおります。神様を愛した私ども、神様に召し出された私どもは、義とされ、栄光を与えられるとパウロは言うのであります。


《私どもと共にうめいてくださる》

加藤先生が今日のところの説教でこんなことをおっしゃっていたのです。
「二六節では、私どもだけではありません、神ご自身に外ならないみ霊が、私どものそのうめきを共有して、共に呻きながら、私どものために取りなしてくだっていると、言い切るのであります。『うめく』というのは、そのこと自体が、すでに言葉を失ったということを意味するかもしれません。そしてその時に、言葉を失った私どもを、愚かな者だと、神が見くだされるのではなくて、神ご自身までが言葉を失ったかのように、うめきを共にしながら、言葉に表すことができない切なるうめきをもって、私どもと共にいてくださる。このみ霊が私どもと共にいてくださるということがなければ、おそらく私どもが、深い悲しみのある人に向かって私どもの同情を告げても、それは実にしばしば、空しいものになるのではないかと思う。パウロはこういう、うめきを共有することができるところに立たされている恵みを、ここに語り告げてくれるのであります(加藤常昭、ローマ書講解説教3、四五頁)。」

そしてもうひとつ申し上げたいことがあるのです。霊が共にうめいてくれるということです。
私どもの手元にありますハイデルベルク信仰問答。ただ一つの慰めを告げて、私どもの救いについて語り、使徒信条から父なる神、子なる神、聖霊なる神について記しているのですが、皆さんと共に味わいました時、信仰問答が聖霊について語る時、最初に聖霊について記して、その後、では聖霊とはなんだ、どんなものだとは言葉を重ねて記すことはしていないと申し上げたのです。

その代わりに記すのは教会についてでした。なぜならキリストの教会の中にこそ聖霊が働いているからです。聖霊がここにおられること、私どもと共にいて、私どもの中で働いて下さっていること。それはキリストの教会を見ればわかるからです。私どもの浦賀教会を見ればわかるからです。だからこそ信仰問答は教会について記していたのです。

ですから聖霊が共にうめいてくださる。取りなして下さるとはどういうことでありましょうか。

私一人では祈るべき言葉さえでないことがあったとしても、聖霊が働く教会が取りなすのであります。

……わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

それがもう一つ、大切な意味なのです。


posted by かたつむり at 12:53| 神奈川 ☁| 説教 ローマの信徒への手紙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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