2016年03月29日

私どもが死の床にある時にも

しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
(コリントの信徒への手紙一第15章35-38節)

 聖パウロは、復活について、むき出しの言葉と、これまでに届けた説教の代わりに、ここでこんなにも美しい情景を描き、メタファーを用いて見せる。このように普通の人が簡単に理解できるような、心に留めることができるような言葉づかいだと言えるのは、この情景がまったくありふれたものであり、毎日誰もが目にするものだからである。そえゆえ、みなさんが農夫が野を歩きながら、袋に手をのばし、そして自分のまわりになにかを振りまいているのを見たなら、それは美しい情景であり、死者を復活させる神の美しい仕方を描いているのです。でもまずその前に、みなさんがこの説教を信じることが必要になります。そうすればみなさんは、神がそのような農夫であり、みなさんご自身は、神が地にまかれた小さな種であり、それが芽を出して、はるかに美しく、栄光に満ちたものになる、ということを思い描き、考えることができるようになるでしょう……

 それでは、敬虔な農夫がそのように種をまくときには、どのようにし、また何を考えているでしょうか?
それは無駄な損失の多い労働であるように見え、また農夫も自分の種を全く無駄にしている愚か者に見えるかもしれません。でも彼に尋ねてみれば、すぐに答えてくれることでしょう。

「何てことをお言いなさる。私は無駄にするため、だめにするためにまいているわけではないですよ。再び大きくなって、とても美しくなり、実って、このひとつかみよりも、ずっとずっとたくさんもたらしてくれるよう、こうしているのですよ。実際、鳥や虫たちにやられて、今は無駄に見えても、夏が来れば、その成長のさまを見れますよ。ひとつかみが10つかみに、一ますなら6倍になりますよ。」

農夫が考えるのはそんなことなのです。地に落ちて朽ちてしまう種のことなどにこだわっていないのです。そのままの状態であるなどとは考えないのです。いや、農夫はやって来る夏を楽しみにして待つのです。夏になれば、農夫は十分に、豊かに報われるのです。まるで目の前で見るように、農夫は種が育つことを確信しているのです……

 だから、このようにして私どもも神の御前でそのように考えるように学ぶようにしなければなりません。神はひとつかみをここに、もうひとつかみをあそこの墓地におまきになるのです。神が私を今日おつかみになり、他の者を明日おつかみになるでしょう。常に一人、一人と。そして地に、神の種としてお入れになる。それは私どもには終りか、永遠なる朽ちに見えるかもしれませんが、神はこれについてまったく違った見方をお持ちであり、まった異なった考え方をお楽しみになっているのです。神はこのことを、ただご自身の小さな種が、このみじめな存在に続いてやって来る、心地良い夏の間に、再び芽を出して、ずっと美しくなるようにと、そうなさっておられるのです。神はまるでもうすでにそうなってしまっているかのように、もう実現しているかのように確信されておいでです。

でも私どもにとって、このことが、とてもすばらしく記され、描かれておりますから、私どもが死の床にある時にも、同じ思いになることができるのではないでしょうか。

これが本当のおしまいであるかのように、私どもが見、感じることがすべて、これから自分が土に埋葬されるのだということであっても、またまるでこれが本当に終わりであるかのように、私どもには嘆く声と、泣く声しか聞こえないのにもかかわらず、私どもは不安にならなくても良いのだと。

いや、その時に私どもは、私どもの心から、そのような人間的な思いを断ち切らなければなりませんし、これは葬りや朽ちるというようなことではなくて、神ご自身が、小さな種をまいたり植えたりすることなのだと私ども自身に言って、私どもの心に、このような天の、神の思いを接ぎ木しなければならないのです。ここでは私どもは自分で見たり感じたりするものによって判断してはなりません。神の御言葉によって判断しなければならないのです。私どもが物理的な種をまくときに、種を地面に放り投げ、それが朽ちることなど考えません。そうではなくて、私どもはその未来の状態についての知識によって考えるのです。そのような思いは私どもの想像力によって生み出されるものではありません。私どもがちょうど、今の存在において、私どもの考えを神の御業から考え、形づくるのです……

 もしこの種が自分に起きることを見、感じることができたとしたら、自分が永遠に失われるのではと不安に思うかもしれません。しかし農夫はまったく違う物語を語るでしょう。もうそこにはすでに、すばらしく茎が育ち、穂がたわわになっているかのように、描いてみることでしょう。そして私どもも、私どもが地にまかれる時には、私ども自身をそのように描いてみることをしなければなりません。

これが死に行くこと、朽ち行くようなことではなく、まかれ、植えられることであり、まさにこうすることによって、新しい、永遠に続く、そして完全なる命、存在へと入れられることなのだと、私ども自身の心に刻みつけるべきなのです。

将来においては、私どもは死や墓について語る時、新しい言葉、言語を学ぶ必要があるでしょう。私どもが死ぬ時、これは実際には死ぬことではなく、来るべき夏のために、種がまかれることを意味するのであると。そして墓や地への葬りは死のむちを指すのでなく、神の種として知られており、再びいっぱいに花が咲き、想像できないほどに美しく育つ、種で一杯に満たされた野を指しているのだと。
(マルティン・ルター「コリント1章15章の注解」より)

posted by かたつむり at 11:44| 神奈川 | マルティン・ルター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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