2012年01月24日

ユダの裏切り(ルカ22章47−53節)

イエス様がなさったこと。それはまずお憐れみであったと申し上げました。

ユダがすること。
それはまさにサタンになりかわって、この裏切りのわざを行っている。

しかしイエス様は違うのです。何もかわりません。

「私は変わらないまま。あなたに、ユダに対しても何も変わらない。今、あなたによって、あなたのせいで、十字架にかかろうとも、あなたの前で扉を閉ざしてしまったりはしない。その十字架のもとでさえも、私はあなたのために祈ろう。そこであなたはなお赦しと救いとを受けることが出来るのだ」。

そして弟子たちが振り上げた怒りの刀をおさめることをお命じになる。弟子たちが傷つけた人をお癒しになる。ご自身が死へとお向かいになるのに、その道行きでなさった最後の奇跡が、暴力で迫ってくる敵の傷をお癒しになることであった。
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2011年11月28日

わたしたちの上に大いなる光が輝く(イザヤ8章23節−9章6節)

長く暗い冬を迎えるヨーロッパの牧師たちは、寒い冬の、暗い夜道をたどってきて、ようやく一軒の家の扉を開けたときの光りがどれだけ明るく、私たちの心を暖かくしてくれるかを語っていたのです。

でも正直言って、日本で暮らしていて、そのような状況に出くわすことは多くはありませんでした。
私どもはもう暗い夜道を経験することが少ないのではないでしょうか。町を歩いても、暗い夜道というものはなくなってしまい……

と言いつつ何でありますが、最近少し考えが違ってきています。秋、冬となり、日が短くなって気がついたのです。去年まで煌々と照らされていた街角が暗くなっている。人とすれ違う時には、どきとするほど暗くなっているのです。3月11日の震災の影響です。

クリスマスの出来事を語る時、世界中の多くの人びとが、それがいったいどんなものであるのかを、心を込めて語ろうとしたこと。私たちが迎える今年のクリスマスは、暗闇の中で、明るく輝く光。夜、家に帰り着いた時の光の明るさ。そして暖かさを、特に感じるクリスマスになるのかもしれません。


(2011年11月27日横浜中田教会主日礼拝説教)
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2010年11月29日

いのちの確かさに生かされる! 説教 加藤常昭先生

ここでパウロが言っている戦いとは私と神との戦い。

どうして戦いが起こったかというと、私が神に対して敵意を抱いているからです。敵って何か。わたしたちが敵であった時というのは、その前の8節で言うと、まだ罪人であった時と言うことです。キリスト教会に来るっていうと、あなたは罪を犯していると言われます。そんな悪いことをした覚えはない。そういう時に罪って何かっていうと、あなたは神を敵としている。

かつて私が長く教えられた説教を聞き続けた竹森満佐一先生がここを説かれた時に、私どもは神と不倶戴天の敵の関わりであったのであります、と言われた。私はびっくりしました。不倶戴天と言う言葉は子供の頃から良く知っている。なぜ知っているかというとやっぱり講談。講談の中に敵討ちの話が出てきます。親のかたきに巡り会うっていうと不倶戴天の仇と言う。共に天をいただくことができない。あんたが生きていたらこっちは安心してられない。あなたを殺すまでは落ち着かない。

そういう関わりに、私どもは神との関わりに生きていたんだ。竹森先生がそう言われてびっくりしたことがあります。でもなるほどなと思いました。

神を敵にまわす。神を信じないと言うことは神を敵にまわすっていうこと。神の御心がわからんということは、神に敵対するって言うことです。私がたとえば自分の家族を愛せないと言って、神の愛の戒めなんかいらんと言って、神に敵対しているのです。神の愛の戒めなどで生きて行かれないと言って、神を敵にまわすんです。

おそろしいことをしている。パウロはしかしその時に、神を敵にまわしたままで生きて行かれないだろう。しかし今生きていられるのはなんでか。あなたのかわりに、イエス・キリストが神の敵になって死んで下さったから、と言うのです。

(2010年11月28日 特別伝道礼拝説教より)


「いのちの確かさに生かされる!」



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2009年12月18日

来るべき方 説教:川村輝典先生




「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』」

待望としての信仰という、聖書の持つ大切な一面というものが記されているのです。

主イエスのお言葉を見ますと、どうもヨハネの質問にストレートにお答えになってはおられないようであります。主イエスは、確かにわたしはあなたの言うメシアである、という風には言われませんでした。

それは、ただ信仰というものが、

与えられたものを無意識に受け入れるということではなしに、
啓示の出来事に自分のいわばすべてをもって立ち向かい、

正面からその啓示の出来事に出会い、

自分の意志で決断をし、
そしてこれを心から受け入れるものである。

そういう信仰の姿勢を示しているのではないだろうか。
そのように思っております。
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2009年06月29日

心安かれ、われ、神を信ず

「心安かれ、我は神を信ず。」

「元気を出しなさい。わたしは神を信じています。」


自分は、もう死んでしまうのではないか。自分の人生はここで終わってしまうのではないかと、絶望する人々に対してかけられた、使徒パウロの励ましの言葉です。

教会という舟の上で励ましの言葉がかけられる。

元気を出しなさい。安らかな心を持ちなさい。それはなぜでしょうか。

「わたしは神を信じている」からだと言うのです。どうぞ、この言葉。この信仰により励まされ、支えられて、さらに新たに、歩み出したいと願います。
2009年6月28日武山教会主日礼拝説教を読む
posted by かたつむり at 00:03| 🌁| 主日礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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